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正中の変と伊達氏―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載101

 今回もまず〝武士=農園経営者〟と仮定して話を進めたい。鎌倉幕府は農園経営者たちが設立した農業組合。その事務局長が北条氏。北条氏は職権を利用して自らの北条農園を拡大。多くの社員を抱える北条農園グループへと成長した。

 弘安8年(1285)11月。北条農園グループの実権は社長秘書の長崎氏が掌握する。当時、鎌倉農業組合の組合員たちは「親がすべての子供に農園を分与するため、どんどん土地が少なくなる」という問題に直面していた。しかし社長秘書の長崎氏は北条農園グループ社員の土地問題を優先。お座なりにされた組合員たちは不満を募らせていった。

 一方、鎌倉農業組合への反感は京の都でも高まっていた。日本政府(朝廷)のトップである皇室が、だ。じつは組合は、皇位継承問題に首を突っ込んでいたのである――。正嘉2年(1258)に後嵯峨上皇が、後深草天皇(兄)を無理やり退位させ亀山天皇(弟)を即位させた。なんとか復権したい後深草は組合に相談。すると組合は「後深草と亀山の血統が交互に天皇となる」という妥協案を示し、建治元年(1275)から実施されることとなった――。後深草の血統は〝持明院統〟、亀山の血統は〝大覚寺統〟と呼ばれ、しばらく2つの血統が交互に天皇になる〝両統迭立〟が続く。

 文保2年(1318)2月、大覚寺統の後醍醐が天皇に即位。「自分の皇子を次の天皇にしたい」と強く願っていた後醍醐は、組合(幕府)が決めた両統迭立に強く反発。ひそかに討幕を志すようになり、元亨4年(1324)から具体的な計画を練りはじめた。この年の9月、後醍醐の側近・日野一族が美濃国(岐阜県)の組合員・土岐氏を味方につける。これで武力を手に入れた後醍醐。しかし密告者があらわれ、機先を制した組合の京都営業所(六波羅探題)により土岐氏が討伐されてしまう。さらに翌年の正中2年(1325)5月には日野一族も逮捕され、後醍醐の計画は水泡と帰した。この騒動を〝正中の変〟という。

 では、計画を密告した者とは誰だったのだろうか。ひとりは事態を危ぶんだ土岐氏の者。もうひとりは伊達三位房游雅という僧侶である。游雅は伊達一族のようだが、奥州伊達郡の者かは不明だ。伊達氏は但馬国(兵庫県)や出雲国(島根県)にも分家がいたからである――。出自はともかく、後醍醐天皇の側近として討幕計画に加わっていた游雅。が、あまりにも計画がずさんだったため、日野一族に罪をなすりつけ天皇を守ろうとしたらしい。計画に加わった者の名をしるした手紙を六波羅に投げ入れたのである。

 その後、一味が逮捕された際、游雅も都を追放となった。それでも罪が許されると再び天皇のもとに戻っている。游雅にたいする後醍醐の信頼は変わらなかったのだろう。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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