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【熟年離婚】〈男の言い分67〉

あの大震災から避難して、知らない街で暮らしたが、ふるさとの潮風の匂いが恋しい。ただ、それだけだよ。


 K氏、73歳。元・農業。4歳下の妻と昨年末、離婚。

 あの津波と原発事故から、ずいぶんと時がたったんだなぁ。はぁ、ひと昔前の話になっちまった。浜の者、みんな大変な目に遭って、命からがら避難して来たのが、悪い夢みてぇだ。

 俺の家は代々、農家でな、高台で米作っていたんだ。あの津波が来た時、ここは大丈夫だべ、とみんなで海を見ていて―初めの波は高台まで上がって来なかったが、次の波が山のようにデカくて―思い出すのは辛いが、部落で亡くなった人達も半端なくあったよ。

 いやいや、その話はやめるべ。また辛くなるからな。

 話はその後のことだ。

一家離散

 避難する前までは、俺ん家は、婆さん―俺の母親と、俺ら夫婦と、息子と嫁と、3人の孫と―8人家族のにぎやかな暮らしだった。そこに、あの津波と原発事故だべ。みんなであっちこっち避難しながら、県中の大きな街に落ちつくことになった。んでもな、息子の家族は、さっさと県外の街に行ってしまった。

 ―初めはどんなに苦労しても、また、家族みんなで賑やかに暮らせる時が来る、と楽しみにしていたのにな。

 婆さんと、私ら夫婦の三人で、知らない街のアパート―6畳2間とちょっと広い台所―で暮らすことになったわけだよ。

 いやはや、生まれて初めての狭いアパート暮らしは大変だった。これまで、広ーい2階建ての家で、飯時に「おーーい」と呼びあっていたのが、毎日毎日、女房と婆さんが目の前にいる。これにはくたびれた。女房も、婆さんも同じ気持ちだったと思うよ。

 私らが一番、こたえたのは、孫達が目の前から消えてしまったこと。学校に行く前のドタバタやら、飯時のにぎやかさやら、兄弟げんかや、毎日毎日、祭りのようだった。サッカーの試合の応援やら、年寄りには縁遠いクリスマスの家族団らんや―みんな一緒の時は当たり前に思っていたことが、全部、消えっちまった。婆さんは、避難の疲れやら、慣れないアパート暮らしが響いたのか、次の年に入院して、半年で亡くなった。

「家付きカー付きババ抜き」

 俺ら夫婦、二人だけ、知らない街のアパートに残ったわけだよ。

 毎日毎日、すぐそばに女房がいる。向こうも目の前に亭主がいる。つまんねぇことで喧嘩も絶えなかったよ。一つだけ、夫婦で一緒にショックだったのは、息子夫婦が遠くに行ってしまったこと。しかも、半年もしないうちに向こうに家を買って住み着いてしまった。

 俺が若い頃、ちょうど年頃の娘達の間で、結婚相手の条件は「家付き、カー付き、ババ抜き」って言われたもんだ。それはそうだべ。家と車はほしいが、小うるさいババ―姑はいらねぇわな。俺の家の場合、家とカーは付いているが、しっかりババ付きだし、しかも、若い娘に人気がない“農家”だから、息子に嫁が来てくれるか、女房と二人で心配した。幸い、嫁が来てくれて、子供も三人産んでくれた。元気で働き者で、自慢の嫁だったが―いざとなると、“ババ抜き・ジジ抜き”が望みだったんだなぁ。息子一家が、私らと別の街に避難した時、息子と電話でしゃべったが、嫁が私らとは別居して、若い者だけで暮らしたいと言ってる、と。嫁の言いなりになる息子も情けないが、仕方ないべ。若い者皆、そう願ってるんでないの?「時代が違うんだよ」と人さまに言われそうだ。

妻、充実の日々。夫、ヒマ


 ま、それはそれとして、女房は、新しい街の暮らしに大満足だ。同じ町から避難して来た女友達と集まって、カラオケに行ったり、食事に行ったり、買い物したり―これ、どこの家族も同じだ。真っ黒になって田んぼや畑で頑張って、家族の世話して自分のことはいつだって後回しだった女房達が、そんな時の仇を取るみたいに、楽しく過ごしている。―亭主はというと―さしあたってすることがない。小さい土地を借りて畑を作っても、それがどうした?っていうところ。男は、友達を作って一緒に遊ぶなんて、まず、ムリ。若い者は仕事に就いて頑張るが、還暦過ぎの者は、みんな家で留守番しかないよ。

 アパート生活が4年目になって、女房は、この街に小さい家を買って永住したいと言い出した。俺は、いつかは故郷に戻って、昔のように、海が見えるところに家を造って、人生の終わりを過ごしたかった。―そのことで、毎日、喧嘩だよ。

 そのうち、女房は、不動産屋で大きい空き家を見つけて来て、そこに移ろうという。お互い、人生最後の棲家が決まらないまま、その空き家に移ることにした。古い家だが、今度は2階建てで、アパートとは全然違って暮らしやすい―というか、すぐ目の前に、女房がいる、亭主がいる、という毎日から抜け出せるんだ、それはありがたい。が、それからというもの、夫婦の暮らしがどんどん離れて行ったのよ。

 女房は、広い居間と台所が出来たのがうれしくて、あれこれ料理を作って女友達を呼ぶ。料理の勉強会と言って人を呼ぶ。中に、“高級化粧品”のセールスを始めた友達がいて、化粧品の“お試し会”をやる。そのうち、カラオケにのめり込んで、講師の先生を家に招いて、友達を5、6人集めて“勉強会”を始めた。―今まで、農家の嫁、主婦、姑として苦労して来た分を、こうやって取り戻す気持ちなんだな、と思ったよ。

 俺はというと―気が付いたら、本当にすることがない。毎朝、当てもなく散歩して、小さい借地の畑をやるだけ。大根や芋や菜っ葉が少し取れても、喜んでくれる者もない。暗いうちから畑に出て、日暮れまで頑張って、孫達に「じいちゃんの芋、うまーい!」なんて言われた頃が、一番幸せだったかなぁ。

決 心

 そんな毎日を夫婦それぞれに暮らしているうちに、長い年月が経ったっていうわけ。女房はますます元気な毎日。カラオケも、本人が言うには“上達”して、ドレスなんか作って、ホクホク、カラオケ大会に出たりするようになった。どうしたことか、高級化粧品のセールスも始めた。もう、イケイケだよ。―昔の農村なら、隠居の年頃だよ。―迷惑がられるから行くな、と私が言うのに、息子の家にもバンバン泊まりに行く。―将来は一緒に暮らすつもりだろうね、嫁が気の毒だが。

 何の深刻な夫婦喧嘩も、争いごとも無い。毎日、夫婦それぞれの時間が過ぎるだけだ。故郷の高台から見える海と、潮風の匂いがたまらなく恋しくなった。女房に「恋しくないか」と聞いたら、「いいや」と。沢山の悲しい犠牲が出たことを、女房は、毎日を目いっぱい忙しく過ごすことで、心の奥に閉じ込めておきたいんだろうな。

 話し合った末、俺だけ、故郷の町に帰ることにした。ふるさとの潮風の匂いが恋しい。ただそれだけだ。

 今は、親戚の空き家を借りて、潮風の吹いて来る丘で暮らしている。俺のように帰って来た仲間もいるよ。小さなハウスを建てて、仲間と花作りも始めた。あと10年、頑張ってみるよ。(橋本 比呂)

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