【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載80-佐藤基治と十綱橋
佐藤基治と十綱橋
福島市・飯坂温泉。飯坂駅のすぐ近くに、摺上川を渡る一本の橋が架かっている。〝十綱橋〟という。
この橋の歴史は古く、9世紀頃には既に存在していた。当初の十綱橋はいわゆる吊り橋。藤の蔓を10束ほど編んだ綱で両岸を結び、この綱に板を並べていたそうな。名前の由来も「10束の藤蔓で綱を編んだから十綱」または「藤(とう)蔓で綱を編んだから十綱」とされている。何にせよ、かなり野趣あふれる橋だったようだ。そのせいか十綱橋は和歌の世界で、陸奥国を代表する歌枕(名勝)のひとつに数えられた。平安時代の西暦1188年までに完成したとされる〝千載和歌集〟に、十綱橋を詠んだ一首が掲載されている。
「みちのくの十綱の橋にくる綱の絶えずも人に言ひわたるかな」
というもの。意味は、
「みちのくにある十綱橋が綱をたぐり続けなければ渡れないように、絶えずあの人に求愛し続けよう」
といった感じか――。なかなか野性味かつ情熱にあふれた和歌だ。だが現在、その風情にひたることはできない。歌枕としての十綱橋は、平安時代の末期にはもう失われてしまったからだ。水害で流失したのか?否、人為的に切り落とされたのである。当時の信夫郡(福島市)を治めていた武士、佐藤基治によって。
文治5年(1189)7月26日。平泉の奥州藤原氏を滅ぼすため、源頼朝が鎌倉を出陣した。率いる軍勢は総勢28万と言われているが、実際は4万ほどだったらしい。そうだとしてもこの時代では未曾有の大軍だ。対する奥州藤原氏の兵力は2万とされているが、こちらも動員できたのは3000人ほどか。いずれにせよ兵力差は大きい。これを補うため奥州藤原氏は、阿津賀志山(国見町)に巨大な防塁を築いて源氏軍を待ち構えた。ところが平泉にとって最大の同盟国である信夫佐藤氏は、阿津賀志山に参陣していない。この点が「平泉と信夫は主従関係ではなく、あくまで対等の立場」だったことを端的に物語っていると言えよう。信夫佐藤氏が阿津賀志山に立て籠もってしまえば、その南にある自分たちの領地が蹂躙されるのを看過することになってしまう。この時代の武士にとり領地が荒らされることなど言語道断なのだ。そこで当主の佐藤基治は「我らは同盟者として独自に源氏軍の北上を阻止する」と表明。信夫郡の南端に砦を築いた。福島市平石あたりと推定される石那坂に。
こうして基治は飯坂を出陣。その際「もし石那坂が突破されたとき少しでも敵の妨げとなるように」と、十綱橋を切り落としたという。奥州街道の前身となる古代の官道(東山道)は、石那坂から飯坂に達し、そこから阿津賀志山へと通じていたからだ。さらに橋の破壊にはもうひとつ「二度と帰ってこられないぞ」という、基治の決死の覚悟も込められていたに違いない。 (了)
おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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