見出し画像

【歴史】安達は公家の領地―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載88

(2021年4月号より)

 平安時代の康治2年(1143)に、藤原基成という人物が国司に任命され、陸奥国に赴任した。このとき基成に同行した部下のなかに、惟宗定兼という公家がいる。惟宗氏は代々〝太政官〟という中央省庁の役人を務めていた家。どういうわけか定兼は太政官ではなく、地方官僚の道を選んでいる。経緯はどうあれ陸奥にやって来た定兼。すると仁平元年(1151)に「陸奥の国内に太政官の領地が欲しい」と考えた。この時代は国有地とは別に、各省庁が自前の土地を所有することも許されていたのである。上司の基成に相談した結果、定兼には安達郡(二本松市)が与えられる。当時は管轄が変わると、行政区分の呼称が〝郡〟から〝保〟へと変更されることになっていた。つまり安達郡は〝安達保〟となり、陸奥国司の下から太政官の管轄下へと移ったわけだ。そして保を治める〝保司〟には定兼が任命され、安達に土着した。定兼は基成から自立したわけだが、以後も両者は良好な関係を維持していく。

ふくしま歴史イラスト001

 時は流れて文治5年(1189)8月。奥州藤原氏を滅ぼすため、源頼朝の軍勢が陸奥国に侵攻。このとき平泉には、まだ藤原基成が存命だった。彼は任期を終えた後も平泉に残り、奥州藤原氏の政治顧問となっていたのである。となると惟宗定兼も当然、平泉に味方しようと決意。信夫郡(福島市)の信夫佐藤氏に加勢し、石那坂(福島市平石)で鎌倉勢を迎え撃った。だが、すでに66歳となっていた定兼は満足に戦えなかったらしく、石那坂で討死してしまう。やがて奥州藤原氏も滅び、陸奥は鎌倉幕府の御家人(幕府に属する武士)によって分割支配されるようになる。ところが安達は、幕府の支配下とはならなかった。太政官の役人・壬生隆職が頼朝に掛け合い、そのまま太政官領として残されることとなったのである。さらに建保6年(1218)には壬生家の私有地とされ〝安達保〟から〝安達庄〟となる。〝庄〟とは荘園(私有地)の略称。というわけで武士の世である鎌倉時代においても、引き続き安達は〝公家の領地〟とされたのだ。

 とはいえ壬生家が、京から安達に移り住んだわけではない。現地には〝荘官〟と呼ばれる代官を派遣している。この荘官になったのは、藤九郎盛長という武士だったらしい。藤九郎盛長の妻は丹後内侍といって、惟宗広言という公家と離婚して盛長に嫁いでいる。――話を整理しよう。元安達保司の定兼と広言は、同じ惟宗家。惟宗家にかわり新たに安達庄司となった壬生家は代々、太政官で同僚の間柄。そして盛長の妻・丹後内侍は、かつて太政官の身内。だから盛長は武士といえども、公家の壬生家とは近しい関係にあったのだ。

 その後、盛長は〝安達盛長〟と名乗り、幕府の要人となる。さらには後世〝鎌倉殿の13人〟と呼ばれる閣僚にも選ばれている。 

(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


通販やってます↓


よろしければサポートお願いします!!