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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載77

源義経と佐藤兄弟


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 寿永2年(1183)7月。源氏の木曽義仲に攻められた平氏一門は、京の都から逃げ出した。いよいよここから源平合戦が本格化する。

 寿永3年(1184)1月。木曽義仲と対立した鎌倉の源頼朝は、義仲討伐のため2人の弟、範頼と義経を派遣。結果、義仲は敗死し、平氏追討の主導権は頼朝に移る。

 頼朝の代官として戦を任された源義経。その傍らには、常に2人の武将が控えていた。佐藤継信と忠信の兄弟である。奥州で育った義経が関東にいる頼朝のもとへ馳せ参じた時、信夫郡(福島市)からこれに付き従ったのが佐藤兄弟であった。ちなみに継信と忠信に「義経へ随身せよ」と命じたのは、平泉の藤原秀衡だったとされている。数多の武将のなかから秀衡は、なぜ佐藤兄弟を選んだのか? この点については不明だ。奥州藤原氏の秀衡と信夫佐藤氏の当主・基治は同盟関係にあり、決して主従の間柄ではない。となると〝秀衡が基治に命じた〟というのは不自然。むしろ〝佐藤兄弟が進んで義経に従った〟と考えるべきだろう。

 一説によると義経は、佐藤基治と乙和御前との間に生まれた娘を妻に迎えている。乙和御前は基治の後妻で継信と忠信を伴って再婚した。つまり佐藤兄弟からすれば義経は〝義妹の夫〟ということになる。だから義経を一人で関東に行かせられなかったのだろう。また兄弟は連れ子であったがゆえ、義父の基治から後継者と目されていなかった。言い方が悪いが「義経と佐藤兄弟が奥州を離れても信夫佐藤氏には何ら痛手ではなかった」のである。

 ひょっとしたら佐藤兄弟は〝信夫に居場所がない〟と感じていたかもしれない。一方、秀衡による〝源氏恩顧の武士を手なずけるため〟という政治目的で奥州に呼ばれた義経。その目的は達成され、もはや用済みとなっていた。3人を強く結びつけたのは〝疎外感〟ではなかっただろうか。「どこかで一旗挙げなければ」という危機感。3人が平氏追討で奮戦したのは、自分たちの居場所を求めてのことだったのかもしれない。

 なんにせよ義経にとり、佐藤兄弟の随身は心強かったはず。この時代の合戦は個人戦で、指揮官といえども刀や弓を手に戦わなくてはならなかった。ところが義経は小柄で力が弱い。その点を補ったのが、ともに大柄で武芸に秀でていた佐藤兄弟だったと思われる。

 寿永4年(1185)2月。佐藤継信は、屋島の合戦で討死。義経を庇い矢が当たっての落命だった。

 同年3月。壇ノ浦の合戦にて、ついに義経は平氏を滅ぼした。ところが既に頼朝と不仲になっており、この年の10月から追われる身となってしまう――。文治2年(1186)9月。義経と別れて京に潜伏中だった佐藤忠信。ひょんなことから所在がばれてしまい、頼朝が放った刺客によって討たれた。      (了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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