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白河結城と下総結城―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載90

(2021年6月号より)

 下野国小山(栃木県小山市)の豪族・小山氏は、藤原氏の流れを汲んでいる。源平合戦が始まった治承4年(1180)頃の当主であった小山朝光は、源頼朝に臣従。寿永2年(1183)には頼朝と敵対していた関東地方の勢力を打ち破った。その功績によって下総国結城(茨城県結城市)を与えられた朝光。ほどなく本拠を小山から結城に移し〝結城氏〟を称するようになった。

ふくしま歴史再発見イラスト

 さらに朝光は、文治5年(1189)に起こった平泉との戦いにも参加。奥州藤原氏の絶対防衛線であった阿津賀志山(国見町)を攻略する際、敵の背後に回り込む作戦を成功させている。朝光の活躍を喜んだ頼朝は、褒賞として白河荘(白河市と西白河郡)を与えた。ここに白河と結城氏の結びつきが生まれたわけである。――ちなみに当時の白河は郡(国有地)ではなく荘(荘園/私有地)であった。所有者は平氏であったとされ、平氏が滅亡した後は鎌倉幕府の直轄地となっていたのではと推測されている。

 余談はさておき、文治5年以降の白河では、その地頭職(土地の支配権)を結城氏が握る。とはいえ朝光は依然として結城を本拠とし、地頭職も下総の本家へ継承されていく。どうやら白河へは、分家を代官として派遣していたようだ。

 家系図を見てみると、

 初代・結城朝光(下総本家)

 2代・結城朝広(朝光の子)

 3代・結城広綱(朝広の子)

 と続いている。朝光や朝広には跡継ぎ息子のほかにも多くの子がおり、子孫の中には白河荘に移り住んだ者もいた。彼らは分家として、白河荘内の1ヶ村ごとに割拠したようである。鎌倉時代後期の正応2年(1289)には2代・朝広の子であった結城祐広(3代・広綱の弟)も白河へ移住。このころ32ヶ村ほどあった白河荘から、祐広には12ヶ村が分与された。どのような事情があったかは分からないが、複数の村を支配することによって祐広は、数ある分家の中でも下総の本家に次ぐ地位を得る。現在の白河市藤沢に城(白川城)を築いて基盤を固めた祐広。すると兄の広綱(下総本家)が〝分家の台頭〟を危惧したらしい。弟の移住と同じ時期に、自分の息子・盛広も富沢(旧大信村)へ移り住ませた。そして残る20ヶ村の代官を、すべて盛広としたのである。こうなると祐広は、白河荘の3分の1を支配しているに過ぎない。さらに当時の武士には〝惣領制〟という慣習があり、一族の本家が強制的に分家を統率することが可能だった。結果、祐広も惣領制のもとで強い制約を受けざるを得なくなる。なにしろ下総本家からの肝いりである盛広が、すぐ目の前にいるのだから――。そのため白河結城家は〝鎌倉幕府の滅亡〟と〝南北朝の争乱〟という激動の時代のなかで、下総本家からの自立を模索するようになる。         

(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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