2024年は大谷翔平の年だった|【生島淳】【スポーツ】東北からの声7

 2024年は大谷翔平(岩手県奥州市出身)の年だった。のちのちになって今年を振り返った時、そう定義されるのではないだろうか。

 現地時間11月21日、米メジャーリーグ・ナショナル・リーグMVPの発表があったが、満票での受賞。文句のない活躍だった。ただし、すべてが順風満帆だったわけではない。むしろ、波乱万丈の1年だった。

 ロサンゼルス・ドジャースへの移籍、3月に発覚した水原一平通訳の違法賭博問題は、大谷のキャリアに暗い影を落としたかに見えた。しかし、スポーツ賭博に関して大谷はまったく関与していなかったことが明らかとなり、ようやく野球に集中できる環境に。初夏、そして本格的な夏を迎えて大谷の勢いはとどまるところを知らなかった。

 メジャーリーグ史上初の「50―50」達成。54本塁打、59盗塁は前人未到にして、空前絶後かもしれない。

 この大記録が達成された背景には、昨年受けた肘の手術を見逃すことはできない。

 23年、大谷はロサンゼルス・エンジェルスとの契約最終年を迎え、「二刀流」として獅子奮迅の活躍を見せていた。しかし、右肘の靭帯移植手術(大谷にとって2度目)を受けることになり、9月のシーズン途中でのリタイアを余儀なくされた。

 その後、ドジャースへの移籍が決まって、24年のシーズンは打者に専念することになった。ドジャースのデーブ・ロバーツ監督は、「ショウヘイはスプリング・トレーニングの段階から『40―40』の実現、そして『50―50』の達成を念頭において準備を進めていたと思う。今季はショウヘイにとって準備の勝利だ」と話していた。

 この談話は興味深い。打者に専念することが早い段階で決まっていたからこそ、大谷は投手としてはリハビリを進めるものの、パワーとスピードを磨く時間が取れた。

 そしてまた、今季はダグアウトでタブレットを使い相手投手を研究する姿がよく見られたが、投手の球筋だけではなく、牽制球の癖などをじっくりと観察、研究していたと思われる。もしも、投手としての仕事を担っていたら、こうした時間を確保するのは難しい。打者に専念できたからこそ、打撃、走塁へと時間を投下することができたのだ。

 昨年後半からの流れを思うに、「災い転じて福となす」ということわざを連想せざるを得ない。

 大谷が再び肘の手術を受けるとなった時は、「いったい、この先の投手生命はどうなるんだ?」と考えたし、水原一平事件が起きた時は、「せっかく強豪に移籍したというのに、なんてことだ」と暗澹たる思いがしたものだ。しかし、大谷はすべての障害を払いのけ、MVP、そしてドジャースはワールドシリーズで優勝できた。

 それでも、まだやり残したことがある。ワールドシリーズでは盗塁の際に左肩を亜脱臼し、満足なパフォーマンスを見せることができなかった。大谷なら、きっとこう思っているだろう。

 次のワールドシリーズで、MVPの働きをして、チームを優勝させる。

 大谷翔平は、まだまだわれわれに新たな可能性を見せてくれる。この先、何年も。

 いくしま・じゅん 1967年宮城県気仙沼市生まれ。早稲田大卒。博報堂で勤務しながら執筆を開始し、99年に独立。ラグビーW杯、五輪ともに7度の取材経験を誇る。最新刊に『箱根駅伝に魅せられて』(角川書店)。

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