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【歴史】伊達宗村と貞暁―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載87

 建久3年(1192)に武士の最高位である征夷大将軍に任じられた源頼朝。将軍の権威を背景に、鎌倉幕府の基礎を固めていった。頼朝時代の幕府は〝将軍独裁〟の色が濃かったが、建久10年(1199)に頼朝が病死すると様相は一変。2代将軍となった源頼家がまだ若かったため、しだいに御家人(幕府に属する武士)たちが権力闘争を繰り広げるようになる。その中で勝ち残ったのが北条氏――。初代・北条時政の娘・政子が頼朝の正室だったことが、ライバルを出し抜く最大の要因となった。建仁3年(1205)には頼家を追放し、弟の実朝を3代将軍に据える。そして自らは将軍に次ぐ要職〝執権〟を称し、幕府の実権を握っていった――。とはいえ将軍の威光がなければ、いくら執権を名乗っても我が物顔はできない。そこで御家人たちの中には、新たな将軍を擁立して北条氏を打ち負かそうと考える者が少なからずいた。その一人だったのが伊達氏の2代目・宗村である。

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 まず伊達宗村には〝貞暁〟という甥がいた。姉の大進局の子だ。大進局は源頼朝の側室だったので、貞暁は頼朝の子となる。大進局は文治2年(1186)に貞暁を生んだが、頼朝の正室・政子がひどいヤキモチ焼きだったため、当初は人目を忍んで育てていた。だが建久2年(1191)に政子に知られてしまう。身の危険を感じた大進局は、6歳になる貞暁を伴い京へ逃亡。京の仁和寺で息子を出家させ、ここで初めて貞暁と名乗らせた。「我が子は世俗を離れました。将軍の座を狙っていません」と、政子に理解させるためだったのだろう。しかし貞暁が頼朝の子であることに変わりはない。還俗させれば将軍になる資格はある。そう考えたのが伊達宗村。「貞暁が将軍になれば、その叔父として絶大な権力を手に入れられる」と目論んだのである。すると承元2年(1208)2月にチャンスが訪れた。将軍・実朝が天然痘に感染したのだ。当時の天然痘は致死率が高い病だったため、宗村は秘かに「実朝が死んだら貞暁を将軍にしよう」と、他の御家人たちに根回しを始めた。ところが実朝の病は完治。さらに密謀の噂が政子の耳に届いてしまう。計画が実行される前だったため伊達氏は滅亡を免れたが、相応の罰は受けた。「本拠地の高子岡(伊達市保原)は没収。粟野(伊達市梁川)に移れ」と命じられたのである。――この一件は、幕府の公式記録には記載されていない。だが実際、伊達氏は砂金が採れる高子岡を手放して粟野へ移転している。これは北条氏との政争に敗れ、没収された可能性が高い。以後、伊達氏は幕府内で頭角を現せぬまま、鎌倉時代を過ごすことになる。

 一方、貞暁は僧侶として生涯を全う。みずから右眼を潰し、敢えて不具の身となった。そこまでしなければ「将軍への野心はない」ことを示せなかったのだろう。

(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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