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大磯の虎御前―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載99

 建久4年(1193)5月28日。鎌倉幕府の将軍・源頼朝は、富士の裾野(静岡県)で狩りを楽しんでいた。狩りには頼朝の側近・工藤祐経も同行している――。この日の夜「祐経は父の仇」と恨んでいた曾我兄弟が一行の宿舎に乱入。祐経の殺害に成功するが、その直後に兄弟も命を落とした。

 ところで曾我兄弟のうち兄の十郎には〝大磯の虎御前〟という恋人がいた。彼女は大磯(神奈川県大磯町)に住む遊女。事件の2年前、当時17歳だった虎御前は20歳の十郎と出会い、すぐに恋に落ちた。だが、父の仇討を忘れられない十郎は、頼朝一行を追って鎌倉から裾野へ。その道中で大磯を通過するので、虎御前と最期の一夜を過ごそうと思えば過ごせる。しかし十郎は「顔をみたら決心が鈍る」と逡巡。遊女宿の戸外から声をかけただけで立ち去ったという――。そして事件から4日後。虎御前の存在を嗅ぎつけた幕府が鎌倉に呼び出して訊問。だが事件とは無関係ということで放免された。その後、虎御前は箱根など全国各地で曾我兄弟を供養し、最後は故郷の大磯で静かな余生を送った。

 ちなみに、虎御前が供養のため全国を巡り歩いたなかに「福島市も含まれている」という伝説が残されている。内容は次のようなもの。

 十郎との別れ際、彼の顔が見られなかったことを虎御前は非常に後悔していた。そこへ「信夫郡(福島市)に不思議な石がある」との情報が届く。――彼女が生きた時代から約200年前、源融という貴族が信夫を訪れた。そこで融は地元の娘・虎女と恋に落ちる。が、融は京に帰還。残された虎女は、いつまで経っても愛しい人が忘れられない。すると近所にある〝文知摺石〟という石の表面に融の顔が映し出された、というのだ――。この話を聞いた虎御前は、すぐに乳母(姥)とともに文知摺石に向かった。だが、どれほど祈っても十郎の顔は映し出されない。不憫に思った地元住民が「文知摺石は崖から落下した際、裏表が逆さまになった」と教えてくれた。落胆する虎御前。と、そのとき石の近くにあった池の水面に、十郎の顔が……。幻とはいえ、ついに愛しい人との再会を果たせた虎御前。感激の涙を流しつつ、大磯に帰っていったという。

 じつは〝虎御前ゆかりの石〟というのは、文知摺石だけでなく全国に数多く分布している。これは「もう少し時代が下ってから曾我兄弟の物語を語り聞かせた巫女(旅芸人)たちに関係しているのでは」と推測されている。たしかに文知摺石の伝説に登場する女性の名が、どちらも〝虎〟というのは妙だ。それでも大磯の虎御前が実在の女性だったことに間違いはない。また文知摺観音の近くには、同行した乳母が植えたとされる〝姥ヶ梅〟があり、今でも春になると三代目の姥ヶ梅が花を咲かせている。             (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。



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