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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載70

信夫大庄司・佐藤季春

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 平安時代の寛治元年(1087)冬。奥州で発生した戦乱〝後三年の役〟が終結した。この戦いに従軍した佐藤師信は、同族である藤原清衡(奥州藤原氏)の援助を受けて信夫郡(福島市)に入植。郡内にあった有力貴族の荘園(私有地)を管理する〝庄司〟として、勢力を伸ばしていく。

 ちなみに当時の信夫郡は、国衙領(国有地)と荘園が混在する状況だったらしい。国衙領を治めるのは国の役人である国司や郡司の役目。師信の跡を継いだ佐藤季春は、いつの頃か信夫郡司にも任命されたようだ。そのため佐藤氏の力は国衙領にも及ぶようになる。よって西暦1140年頃には、信夫の実質的な支配者は佐藤季春となっていた。強大な権力は世間から〝信夫大庄司〟と呼ばれるほど。その背景にはむろん奥州藤原氏との繋がりがあった。季春は、清衡の子・基衡と無二の親友だったのだ。互いの父親が育んだ友情は、子の代となってさらに固い絆となっていたのである。

 ところが保延6年(1140)に事件が起こった――。このころ陸奥守(国司)に、藤原師綱という貴族が就任した。生真面目な性格だった師綱は「国衙領が年貢をきちんと納めているか調べよう」と決心。信夫にも部下を派遣した。だが、部下は佐藤季春に追い返されてしまう。季春には「長年、信夫を治めてきたのは俺だ。新米の陸奥守になど好き勝手な真似はさせん」という自負心があったのだろう。これに怒った師綱は、国府の多賀城から軍勢を差し向ける。すると今度は、師綱の兵が季春に打ち負かされてしまった。「もう許せん。季春を逆賊として朝廷に訴えてやる」さらに憤慨した師綱。――そして訴状を作成するうちに、季春の背後には平泉の藤原基衡がいることに気づく。「季春の横暴は基衡の威を笠に着ているからだ。だから基衡も一緒に罰してもらおう」

 この話が平泉に舞い込むと、基衡は頭を抱えてしまう。いくら奥州藤原氏とはいえ、陸奥守には逆らえないのだ。基衡は、自分の妻を仲裁役として多賀城に送るが、堅物の師綱は取り合おうとしない。

 いよいよ追い詰められてしまった基衡。そこへ季春がやって来る。

 「このたびの騒動は、すべて私ひとりの責任です。あなたに累が及ぶのは心外。どうぞ私を罪人として、師綱のもとへ突き出してください」

 おのれの軽率さを悔いていた季春。この時にはもう死を覚悟していた。結果、基衡は涙を流しながら季春の身柄を師綱に引き渡す。

 こうして信夫大庄司・佐藤季春は5人の子弟とともに斬首に処せられた――。とはいえ、これで佐藤氏が滅んだわけではない。季春の弟・師治が兄に代わって信夫を支配していく。また奥州藤原氏は「自分たちを守るため死んでくれた季春」の恩に報いるため、よりいっそう佐藤氏との絆を強めていくのである。  (了)

 おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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