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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載85-信夫佐藤氏のその後

 平安時代の東北地方において、平泉の奥州藤原氏と並び立つ存在だった信夫郡(福島市)の信夫佐藤氏。彼らは「文治5年(1189)8月に源頼朝と戦い、石那坂(福島市平石)で滅亡した」と一般的には思われているが、実際は違う。たしかに石那坂の戦で多くの将兵を失ったが、全滅したわけではない。当主の基治をはじめ、生け捕りにされた一族もいたのである。いったん捕虜として収監された基治たちは、同年10月に本拠地の飯坂(福島市)へ帰ることを許された。わずかな兵力で鎌倉の大軍に立ち向かおうとした姿勢を、頼朝に称賛されたらしい。傷心の基治を飯坂にて出迎えたのは、嫡男の隆治と基治の弟・師泰――。隆治は病弱だったため出陣せず、師泰は「飯坂の守備を任されていたのでは」と推測されている。

 ともかく御家人(鎌倉幕府に属する武士)として存続を許された佐藤基治とその一族。しかし飯坂を除く領地はすべて没収された。幕府は全国の郡や村を掌握するため〝地頭〟という役職を設置したが、佐藤氏は地頭に選ばれていない。佐藤氏の旧領を引き継いで信夫郡の地頭となったのは、相模国(神奈川県)から派遣された二階堂氏だった。二階堂氏は鳥和田(福島市鳥渡)を本拠として、徐々に郡内へ勢力をひろげていく。一方の佐藤氏は〝無役の貧乏御家人〟に成り果ててしまった。

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 おまけに、さらなる不運が見舞った。建久元年(1190)正月、基治に〝幕府に対する謀反の嫌疑〟がかけられたのだ。じつは平泉滅亡から3ヶ月後の文治5年12月、奥州藤原氏の残党による大規模な反乱が発生、鎌倉の軍勢に鎮圧されるという事件が起こっていた。これに佐藤氏も関与したと疑われたのだ。実際のところ、もはや佐藤氏にそのような力は残されていなかっただろう。それでも罰として、基治は信夫郡から追放処分。嫡男の隆治も同様に扱われ、以後は二人とも行方知れずとなってしまう――。このような没落ぶりから前述のように、一般的に「信夫佐藤氏は石那坂で滅亡した」と誤解されているのではないだろうか。

 しかし実際は、その後も血脈は保たれている。基治の弟・師泰によってだ。師泰は、基治の孫などわずかに残った一族を束ね、逆風の世を懸命に生きていく。その甲斐もあってか、やがて佐藤氏は徐々に勢力を回復。基治追放(1190年)から85年後の建治元年(1275)6月には、幕府の公式記録に名を連ねるまでに至った。何をしたのかというと、京にあった源氏ゆかりの佐女牛井八幡宮(現・若宮八幡宮/京都市下京区)を改築する際、費用の一部を寄付した功績が記されているのである。その人物は〝信夫右衛門入道〟という名。おそらく師泰の孫にあたる者だろう。つまり信夫佐藤氏は、この頃までに〝ある程度の復活を遂げていた〟と考えていい。

(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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