逆修(ぎゃくしゅう)の碑―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載102
元亨4年(1324)から鎌倉幕府の打倒(討幕)に動き出した後醍醐天皇。その一番の動機は「みずからの血統(大覚寺統)が皇位を独占する」ことにあった。鎌倉幕府はもう一方の血筋(持明院統)と交互に即位する〝両統迭立〟を求めていたため、後醍醐は猛反発したのである。 正中2年(1325)5月、最初の討幕計画〝正中の変〟は密告者があらわれたことにより失敗。それでも後醍醐はあきらめない。6年後の元弘元年(1331)8月、あらたな計画を発動させる。しかし今回も密告者があらわれ、同年9月に京における幕府の出先機関であった六波羅探題が、ついに後醍醐を捕えた。
それでも近畿地方における討幕の火は治まらず、9月3日に楠木正成が河内国(大阪府)の赤坂城で挙兵する。これに対し、幕府は全国の武士に「楠木を討て」と命令。当時の福島県からも伊達行朝/伊達、伊東薩摩入道/郡山、田村刑部/郡山市田村町、二階堂一族/須賀川、結城宗広/白河、三浦一族/会津、相馬重胤/南相馬、岩城一族/いわき等、多くの武士が河内国へと出陣していった。
大軍を動員した幕府軍を向こうにまわして楠木正成は善戦したが、10月21日に赤坂は落城。直後にふくしま勢も御役御免となり帰国の途についた――。ところが赤坂攻略から3ヶ月も経たない元弘2年(1332)1月15日、今度は後醍醐の皇子・護良親王が吉野(奈良県)で挙兵。同時に行方知れずとなっていた楠木正成も千早城(大阪府)で再起した。怒った幕府は再び関東地方から大軍を差し向ける。しかし幕府軍には「楠木を討ち取っても褒美としてもらえる土地は少ないだろう」と当初から厭戦気分が蔓延していた。それに加えて楠木の巧みな戦術に翻弄され、攻撃から8ヶ月が経過しても幕府軍は千早城を落とせなかった。
すると業を煮やした幕府首脳は10月末、ふくしま勢にも出陣を命じる。声がかかったのは安積郡(郡山)の伊東氏と岩瀬郡(須賀川市等)の二階堂氏だ。彼らはたった1年をおいただけで、またしても遠征に向かわねばならなくなったのである。交通事情の悪い当時は、近畿に行くだけで決死の思いだったのだろう。そのため11月10日、乙字ヶ滝(須賀川市)ちかくの舟渡場に集結した安積と岩瀬の兵士3050人は、生前に自分で自分の供養をする
〝逆修の法要〟を皆でおこなっている。「生きて故郷には戻れないだろう」という覚悟を示すために――。
このとき石に刻まれた供養塔が今も須賀川市前田川に残されており〝五輪坊供養石幢〟と呼ばれている。供養塔には兵士の名が記されていない。が、無名の兵士の誰もが「自分たちとは無縁の戦で死ぬこと」への虚しさを胸に秘めつつ「せめて死後は極楽へ」と切実に願い、西へと向かっていったに違いない。(了)
おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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