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分裂する奥州―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載107

 後醍醐天皇による〝建武の新政〟はあまりにも時代に逆行していたため、わずか1年で武士たちから見限られてしまった。まず建武2年(1335)7月に、北条時行が残党を率いて信州諏訪にて挙兵。関東の武士たちが続々と時行に従った。奥州では結城盛広が富沢(旧大信村)にて時行に同調する。が、8月に時行が敗北すると盛広も勢いを失い、城を捨てて行方不明となった。これで建武政権に対する反乱は終息……とはならない。逆にこれから本格的な動乱へと突入していくのである。

 鎌倉を占領した北条時行を打ち破ったのは足利尊氏だった。尊氏は「なぜ関東武士が時行に従ったのか。北条を再興したかったわけではない。建武政権に反発しただけだ」と理解していた。そこで「時行に代わって今度は自分が不満の受け皿となる」と決意。足利家は〝源氏の嫡流〟と見なされていたため、多くの武士たちから「かつて源頼朝が鎌倉幕府を興したように、今度は尊氏が足利幕府をひらいてくれ」と支持されていたからである。


 というわけで尊氏は、後醍醐から「すみやかに京へ帰還せよ」との命令があっても鎌倉を動こうとしなかった。さらに「奥州でも北畠顕家が設立した陸奥将軍府が皆から信頼を得ているわけではない」という情報をキャッチした尊氏。陸奥将軍府=建武政権なわけだから「顕家に不満を抱く武士たちを足利の下で糾合しよう」と考えた。すぐさま尊氏は動く。時行を鎌倉から追い出した直後にはもう側近の斯波家長を〝奥州管領〟に任命し、岩手県盛岡市に送り込んでいるのである。家長は陸奥国内に向け「陸奥将軍府に領地を保障されなかった武士たちよ、儂のもとに集まれ。尊氏様に代わって儂が領地を保障するぞ」と呼びかけた。これに福島県内では小高(南相馬市)の相馬重胤、信夫(福島市)の佐藤清親、三芦(石川町)の石川貞光らが次々と応じる。相馬と石川は結城宗広に、佐藤は伊達行朝に領地を奪われるかっこうとなっており、宗広と行朝が陸奥将軍府で要職に就く人物だったからだ。さらに陸奥将軍府のなかからも須賀川の二階堂氏と安積(郡山市)の伊東氏、さらに顕家が重用していた伊賀盛光(いわき市)までもが家長へ秘かに誼を通じていた――。たしかに北畠顕家は傑出した政治家だったが「しょせんは公家」と武士たちから見られていたのであろう。「やはり武士を束ねるのは武士でなければ」という思いが奥州でも強かったようである。

 そして建武2年12月、ついに足利尊氏が建武政権に対して叛旗を翻した。後醍醐が派遣した討伐軍を箱根で撃破した尊氏は、勢いに乗じて京への西上を開始、一方、奥州では石川貞光が挙兵。石川町の周辺で結城の軍勢と戦っている。そのさなか、北畠顕家に対し「尊氏を討て」との勅命がくだっていた――。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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