オープンから1年余―伝承館未だ拭い去れない「違和感」(牧内昇平)
(2021年10月号)
双葉町にできたアーカイブ拠点施設「東日本大震災・原子力災害伝承館」が、9月20日にオープン1年を迎えた。伝承館は「原発事故の反省が伝わらない」などの批判が相次ぎ、展示内容がいくつか修正された。しかし、違和感はまだ拭い去れない。最近県内にできた他の施設を訪ね、課題を探った。
いわき市常磐湯本町の温泉旅館「古滝屋」。ホテル風のロビーからエレベーターで9階に上がると、原発事故の前は宴会場だった20畳の広間がある。この場所で旅館の館主、里見喜生さん(53)は今年3月、「原子力災害考証館furusato」をオープンさせた。
温泉町に生まれた「考証館」
部屋に入ると否が応にも目に入るのが、正面奥のオブジェである。流木がピラミッド状に積み上げられている。木と木の間には、少し汚れた運動靴や、つば付きの帽子がある。子どものものだ。よく見ると、重なった木々の内側には水色のランドセルが潜んでいる。まるでかくれんぼをしているかのように……。誰の展示か、察しがついた。胸が締めつけられる。
これは、震災当時大熊町に住み、妻深雪さんと娘の汐凪さん、父王太朗さんの3人を亡くした木村紀夫さんの展示である。木村さんのご家族は津波に流されたが、地震直後に原発事故の影響で避難を余儀なくされたため、十分な捜索活動を行うことができなかった。その後、ボランティアの力も借りながら捜索を続けた木村紀夫さんの活動については、各種報道で広く知られている。
運動靴にランドセル、家族が乗っていた車のナンバープレート……。捜索によって見つかった品々を目にしていると、あらためて原子力災害の深刻さを突きつけられた気持ちになる。
施設の中を案内してくれた里見さんが、意外なことを言った。
「この展示は、木村紀夫さんが一人でレイアウトを考えたんです」
筆者は驚いてしまった。どこかのアーティストが協力して展示したものと思っていたのだ。それくらいの迫力がある。「驚きますよね」とうなずきながら、里見さんは続けた。
木村紀夫さんの展示の前で話す里見喜生さん
「木の組み方、その中に置かれた汐凪ちゃんの靴やランドセルの配置。木村さんが一人ですべて設えました。まるでそこに汐凪ちゃんたちがいらっしゃるかのように、丁寧に……。3月のオープン前日に完成したと思います。木村さんはその後もたびたびここに来て、ちょっと木の位置を動かしたり、置いてある物をきれいに並べ直したりしていますよ」
里見さんが流木の間から出して見せてくれたのは、汐凪さんが使っていたマフラーだった。ミッキーマウスのぬいぐるみがついたピンク色のマフラーだ。捜索活動中に泥だらけの状態で見つかった時、この中から汐凪さんの首の骨の一部が見つかったという。
「そのことを木村さんはここで表現しようとしています。マフラーの中に、汐凪ちゃんの歯の写真を入れたんです」
里見さんはそう語り、「ほら」と言って、折りたたまれていたマフラ
ーを開いた。すると、1枚の写真が出てきた。白い歯が映っていた。
「木村さんは本当に〝再現〟ということを考えていらっしゃる。もし僕が木村さんの立場だったら、そこまで向き合えるだろうか。並大抵の意志じゃないと感じます」
冷静に、あえて余計な気持ちを加えずに、淡々と語る里見さん。筆者は何も言えず、無言でカメラのシャッターを切った。
町の変化を写真と歌で
木村さんの展示から重たいものを胸に受け取った後、周囲の品々にも目を配ってみる。点数はわずかだが、心に残るものがある。部屋に入って右側の壁に貼ってあったのは、写真家の中筋純さんが撮った浪江町新町商店街だ。
かつて浪江町の中心部としてにぎわった商店街の事故後の姿が、横長のパノラマ写真として切り取られている。中筋さん本人の解説がつく。
考証館に展示されている写真家中筋純さんのパノラマ写真
〈カニ歩きをしながらお店の姿を一軒一軒……。収めた写真をつなぎ合わせて街の写真巻物を作ってみようという試みだ〉
たしかに、作品は街の歴史の一端を示す巻物になっている。写真は上下に二段。撮影時期は、上が2014年頃、下が2020年頃とある。二つを見比べると、事故後の移り変わりが見て取れる。
例えば右端にある理容室。上の写真ではまだ、床屋におなじみの「サインポール」、青、赤、白の3色が回転する棒が立っている。店名が入った軒先の幌も健在だ。だが、下の写真に目を移すと、サインポールはなくなり、建物は鉄板の足場で囲まれていた。解体工事が始まったのかもしれない。
理容店の4軒ほど先も様変わりした。14年の段階ではまだ店の建物が残っていたが、20年の写真ではすでに更地になっていた。街の姿が次第に失われていく過程を、中筋さんは写し取っている。
ここで店を営んでいたのはどんな人たちだったろう。筆者も〈カニ歩き〉をしながら写真を眺め、そんなことを考えていると、壁の下の方に短歌が書かれた色紙が立てかけてあるのに気づいた。
〈わが店に売られしおもちゃのショベルカー大きくなりてわが店壊す〉
浪江町出身の歌人、三原由起子さんの作である。三原さんの実家はまさしくこの新町商店街でおもちゃ屋を営んでいたそうだ。(もともと中筋さんがこの商店街の撮影に入ったのは、三原さんの一首、〈二年経て浪江の街を散歩するGoogleストリートビューを駆使して〉がきっかけだったらしい)
その三原さんの短歌が並んでいる。
〈「仕方ない」という口癖が日常になり日常をなくしてしまった〉
〈校庭より眺める夕日、山なみを全身に受く浪江の子として〉
ここに暮らしていた人の思いが、少しだけ分かる気がした。中筋さんの写真と三原さんの歌を行ったり来たりしながら、時間を忘れる。
里見さんは話す。
「考証館に〝物〟を展示するというイメージはそんなに強くありません。原子力災害というのは〝目に見えないものの喪失〟です。地域、歴史、伝統文化、人の営み。すべて目に見えません。その人の〝心の中にあるもの〟の喪失ですから。それを保存・展示するのは難しい。だから物ではなく、人が先です。ただ、生身の人間が立っているわけにはいかないので、その人の〝分身〟というか〝一部〟を表現するということでしょうか」
旅館の主人が開設した経緯
里見さんがこの施設を作ったきっかけの一つは、三春町の「コミュタン福島」を見に行ったことだという。
原発事故後、被災地のガイドをしていた。大阪から来た知人が「コミュタンを見たい」と言うので連れていった。その時、里見さんは「強い違和感を抱いた」という。
「僕は毎日、双葉郡の方々とお話ししていました。ご家族と離れ離れになったり、故郷を失ったり。そういう状況を毎日見聞きしている中でコミュタンに行ったら、全く別世界のように感じてしまいました。僕が日々リアルに聞いたり体感したりしてきた切なさや寂しさが、あの施設にはなかったんですよ」
コミュタン福島は「放射線についての知識を得る」ことを主な目的として福島県が建てた施設だ。しかし浜通りに住む人びとの感情は表現されていなかった。公的施設で表現するのがその「切り口」だったら、地域に住む民間人として別の「切り口」が提示できると、里見さんは考えた。
今年の3月12日をオープン日にしたことにも理由があった。
「3月12日は原子力発電所が水素爆発した日です。もちろん事故の予兆は何十年も前からありましたが、あれが原子力災害の始まりでした。でも、僕がガイドしているとき、『3月12日は福島で何があった日でしょうか?』って皆さんに聞くと、ほとんどの方が答えることができません。やっぱり、3月12日という日を皆さんに意識してもらいたいです」
それでも、古滝屋という由緒ある旅館の中に施設を作ることへの心配はなかったか。里見さんは「周囲から反対意見もあり、3年ほど悩んだ」と語ったうえで、こう話した。
「ここの旅館は300年以上の歴史があります。戊辰戦争のときに丸焼けになったり、石炭のとりすぎで温泉が枯渇したり、東京大空襲の時には関東の人の疎開先になりました。そうした歴史は、先祖がきちんと残してくれたので僕も知ることができています。それを思うと、イメージがいいか悪いかにかかわらず、この地域に起きた事実は原子力災害を含めて継承していく必要があると思ったんです。語らなかったり、残さなかったりしたら、その間、歴史は空白になります。例えばこの古滝屋の歴史が1000ページの本だとしたら、原子力災害もその1ページではある。その1ページは僕がきちんと記録しておきたいと思いました」
「問い」を共有する場に
考証館という施設の目的は何か。その名の通り〝考える〟ことである。
里見さんと共に設立当初から考証館の運営に関わっている鈴木亮さんは、施設が目指すものをこのように書いている。長くなるが、重要なのでそのまま引用したい。
〈「被害の本質」は展示できるものなのか?
できませんね。少なくとも「これが被害の本質です」と万人が認める正解を示すことと、それを第三者がお墨付きを与えることは、目指すべきではないと感じています。しかし「私にとっては、これが被害の本質です」という声を、一人、また一人とつなげていくことはできると思います。つまり当事者の、震災当時の素の言葉や内面に向き合ったときの苦悩と叫び。魂、祈り、無念さ、そのような「一次情報」を、ぜひこの考証館に託してください、という程度の、ささやかな取り組みから始めたいと思っています。そうして、それらに触れた時、あなたにとっての「被害の本質」は何でしょう? そんな「問い」を共有することができる場を目指したいと思います〉(市民・住民運動の交流誌『月刊むすぶ―自治・ひと・くらし―』2021年3月号)
里見さんは、例えばこんな「問い」を提案する。
「原子力災害について、『自分事』として考えてもらえる施設であったらいいなと思います。ここがきっかけになってエネルギー問題のことを考えてほしい。どんなエネルギーを選ぶかというよりも、我々はどれだけエネルギーを必要なのかっていうことまで、落とし込んで考えてもらえればと。大きい話になってしまいますが、考証館を見て、自分の生活を省みたり、最終的には、地球に住む生き物として我々はどのような暮らしを選択すべきなのかということまで、考えてほしいです」
「結論」を押しつけず、「問い」を共有する。考証館の設立メンバーたちの中にはそのような共通認識があるようだった。
地域愛感じる富岡の施設
考証館を設立した中心メンバーには里見さん、鈴木さんのほかにもう一人、西島香織さんという人がいる。もともとは環境NGOスタッフとして働いており、2年前に関東から富岡町に移住。現在は双葉郡に住む女性のコミュニティづくりに取り組んでいる。
その西島さんが推薦してくれたのが、7月11日にオープンした富岡町の施設「とみおかアーカイブ・ミュージアム」である。
今年7月にオープンした「とみおかアーカイブ・ミュージアム」
「富岡の長い長い歴史の中に、原子力災害を位置付けようとしている。地域愛を感じる施設でした」(西島さん)。実際に行ってみて驚いたのは、展示の半分ほどが「3・11前」の人々の暮らしを伝える資料だった点だ。町内から出土した縄文土器や石器、町北部の小良ヶ浜漁港をつくった網元、三瓶一見の功績を伝える資料もある。
こうした展示のすぐ近くに「3・11後」の資料が並んでいるのは、一種独特の雰囲気を醸し出す。例えば2019年に解体された「JR夜ノ森駅」旧駅舎の一部を再現するコーナーがある。たった10年半前まで人々が座っていたはずの駅のベンチが、数千年前の土器と同じように展示されていることに、何とも言えない胸騒ぎが起こる。この胸騒ぎは「原子力災害の本質」に少し近づくものなのかもしれない、と思った。
ミュージアムで目立つ展示と言えば、津波に流されてしまったパトカーなどだが、筆者が注目したのは町民たちの声を聞くことができる証言ビデオだ。17人のインタビューを見ることができる。映像は一人につき20分ほど。たっぷりとした長さがある。筆者が見たビデオは震災直後の住民避難に苦労した「区長」の話だったが、これからの町の姿について結構言いたいことを言っていて面白かった。こんな話をしていた。
「(町の計画は)コンパクトタウンで今やってますよね。でも、私から言うと、富岡に帰って来たい人は、生まれたところに帰っていきたいんです。(中略)年寄りが富岡に来たい、富岡に来たいということは、ここ(※コンパクトタウン)に来たいのではなくて、家に来たいんです。だから私からすれば、ここに家をいっぱい作った、そのうちの一つ二つは、その地域に作ってほしかったなという感じはします」
「震災の影響で変わったかって言われると……富岡町がなくなると思う。(中略)もう、この状況では、双葉郡はとにかくそれぞれの村で、町村では、やってはいけないんじゃないのという話は何回もしました」
施設全体を通じて、残念ながら原発事故が起きたことへの反省や教訓はそれほど見つからない。一方で、「地域に根差した展示にしよう」という意気込みは十分に伝わってくる。筆者が「とみおかアーカイブ・ミュージアム」を訪れた印象である。
伝承館の課題
以上、今年3月にできた「原子力災害考証館furusato」と、7月にオープンした「とみおかアーカイブ・ミュージアム」について書いた。ここまで書いてくると、50億円超の予算が投じられた原子力災害についての公的なアーカイブ施設である「伝承館」の課題が見えてくる。
たしかに伝承館は伝承館なりに、オープンから1年で変わった部分はある。
今春、伝承館内の展示は少しリニューアルされた=4月
地元が原発を推進してきたことを伝える巨大な原子力広報看板は、写真パネルから実物の展示に切り替わった。建物の外側のテラス部分、しかも地面に置いたことには批判もあるが、実物展示に切り替えたこと自体は評価したい。
原子力広報看板は今年3月から実物が展示されている=東日本大震災・原子力災害伝承館
また、施設内の解説パネルも少しだけ修正された。例えば「安全神話の崩壊」というタイトルの解説にはこう書いてある。
〈国会の事故調報告書は、(中略)「東電と保安院にとって、今回の事故は決して『想定外』とはいえず、対策の不備について責任を免れることはできない。」と指摘し、「何度も事前に対策を立てるチャンスがあったことに鑑みれば、今回の事故は『自然災害』ではなくあきらかに『人災』である」との考えを示しています〉
国会事故調の言葉を借りる形ではあるものの、「事故は『自然災害』ではなく、『人災』である」という認識を明記した点は覚えておいていい。
その他、SPEEDIの予測結果を伝える電子メールが届いていたにもかかわらず、福島県災害対策本部がメールを削除していたことも解説に加えた。オープン以来の批判を受け止め、伝承館も修正に努めているのだろう。
だが、評価すべき点はあるものの、筆者は違和感を拭い去れない。なぜならば、やはり展示全体としては「復興」というメッセージをひたすら強調する内容になっているからだ。
おさらいになるが、伝承館の展示エリアは、【災害の始まり】から【原発事故直後の対応】【県民の想い】【長期化する原子力災害の影響】と続き、最後に【復興への挑戦】で終わるという構成になっている。この流れには〝今考えるべきことは「復興」である〟というメッセージが明確にある。また、【復興への挑戦】エリアの主な展示が政府の推進する「福島イノベーション・コースト構想」の宣伝であることを考えると、「復興とは何か?」という「問い」を立てる余地さえなくなってしまっているようだ。
そこには、いわき・湯本温泉の考証館のように「問いを共有する」姿勢はない。また、イノベ構想の具体例として展示されているのは結局、ロボットやドローンである。そのことを考えると、とみおかアーカイブ・ミュージアムが力を入れているような「地域に根差した内容」と言えるのかどうか、首をかしげたくなる。
県内には今も多くの地域で帰還困難区域が残る。原子力緊急事態宣言も解除されていない。福島第一原発の廃炉は全くゴールが描けない。原子力災害は今も続いており、少なくとも「終わったこと」として伝承できる段階にはない。こんな状態で「復興への挑戦」というメッセージを押しつけられても、納得できない人はたくさんいるのではないだろうか。この点が改善されない限り、少なくとも筆者の中での違和感は解消しないだろう。
もちろん、民間の「考証館」や町の施設である「とみおかアーカイブ・ミュージアム」が太刀打ちできない点はある。規模が大きいのが伝承館の「強み」だ。伝承館の担当者によると、昨年のオープン時から今年9月16日までの約1年間で、来場者は累計6万4784人に上る。福島県は県内の学校の「伝承館見学」を推奨し、バス代や高速道路代を補助している。それだけ影響力が大きいことを十分意識して、伝承館には今後も展示の改善に努めてほしい。
まきうち・しょうへい。40歳。東京大学教育学部卒。元朝日新聞経済部記者。現在はフリー記者として福島を拠点に取材・執筆中。著書に『過労死 その仕事、命より大切ですか』、『「れいわ現象」の正体』(ともにポプラ社)。
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