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【歴史】岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載82-阿津賀志山の合戦(前編)

阿津賀志山の合戦(前編)

 源頼朝が率いる源氏軍の奥州侵攻に備え、奥州藤原氏も平泉を出陣。阿津賀志山(国見町)に防衛線を張った。この防衛線は、堀と土を盛った防壁(土塁)によって形成されていることから〝阿津賀志山防塁〟と呼ばれている。

 防塁は、長さが東西およそ3㌔にもわたる大規模なものだった。西の阿津賀志山中腹に端を発し、東は阿武隈川の岸にまで達している。しかも深さ3㍍、幅15㍍の堀を二重にめぐらせ、高さ12㍍の土塁も二段構えとなっている。これほど長大かつ強固な防塁は、当時の日本では類を見ない。この防衛線を一見しただけで、いかに奥州藤原氏が力を持っていたかが分かる。

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 ただ問題なのは「防塁がいつ築かれたか」だ。一般的には「奥州侵攻が現実味を帯びた頃」とされている。対応に窮した四代目・藤原泰衡が慌てて築造。文治5年(1189)5月から一日約5000人を動員し、約80日の工期で完成させたと推算されている。だが、当時は日本の総人口でさえ1000万にも満たない頃。そのなかで、いくら奥州藤原氏といえども短期間に延べ40万もの人間を集められるだろうか。

 そこで筆者はこう考えている。

「阿津賀志山の防塁は、もともと平泉領と信夫郡を隔てる関所だった。関所の築造は以前から進められており、これを泰衡が防塁へと補強した」と――。実際、奥州藤原氏の支配は阿津賀志山までしか及んでおらず、信夫郡(福島市)は信夫佐藤氏の領地だった。そして信夫佐藤氏は〝昔から奥州藤原氏の同盟者〟であり、家臣ではない。その証拠に、源氏軍が攻めてきた際、信夫佐藤氏は信夫郡の南端である石那坂(関谷)にて単独で戦っている。もし信夫郡までが平泉領だったら、奥州藤原氏も石那坂に布陣しているはずだ。というわけで、おそらく阿津賀志山には以前から防塁の機能を備えた関所が存在しており、これを大々的に増強したのが泰衡だったのであろう。ちなみにこの時代の街道は、阿津賀志山の付近では、山のすぐ麓を通っていただろうと考えられている。

 前置きが長くなったが、いよいよ源氏軍が防塁に迫り来た。文治5年(1189)8月7日のことだ。石那坂に向かった別動隊と分かれた本隊の兵数は、およそ2万。大将の頼朝は、まず源宗山(国見町)に本陣を構える。阿津賀志山から約4㌔南にある小高い山だ。対する平泉軍の司令官は藤原国衡。当主・泰衡の異母兄である。勇猛で知られた国衡に最前線を任せ、大将の泰衡は現在の仙台市に本陣を置いていた。これは太平洋側や日本海側を進撃してくる源氏軍すべてに備えるため。何にせよ、雌雄を決するのは阿津賀志山での戦いであり、ここで4日間にわたる死闘が繰り広げられるのである――。戦いの詳細については、次回の後編にてお伝えしたい。    (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。


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