再起する伊達氏|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載131
室町時代の応永3年(1396)6月、田村地方の領主だった田村庄司が、鎌倉公方の足利氏満と戦って敗死。郡山市東部から三春、田村市、小野町に至る広大な地域が鎌倉公方の直轄領となった。
足利氏満は田村を足掛かりとして奥州全土の支配を目論むが、応永5年(1398)11月に急死。新たに鎌倉公方となった嫡男の満兼が父の遺志を引き継ぎ、次弟の満直と三弟の満貞を奥州へ派遣。応永6年(1399)の冬、満直が安積郡篠川(郡山市笹川)を、満貞が岩瀬郡稲村(須賀川市稲)を本拠とした。鎌倉公方の直轄領となった田村に赴任しなかったのは「つい数年前まで敵地だった場所に、まだ若い弟たちを住まわせられない」と、兄の満兼が判断したのであろう。実際、満直と満貞には領地もなければ家臣もいない。そこで安積郡の武士・伊東氏が満直の、岩瀬郡の武士・二階堂氏が満貞の後ろ盾となった。伊東と二階堂は鎌倉公方に臣従していたからである。
一方、奥州には滅亡した田村庄司以外にも、鎌倉公方の進出を快く思っていない者がいた。伊達郡梁川城の伊達氏だ。南北朝時代、伊達氏は田村庄司とともに南朝方として北朝の足利氏と戦っていた。しかし西暦1352年(南朝・正平7/北朝・観応3)3月に奥州南朝の大将・北畠顕信が奥州北朝の大将・吉良貞家に敗北。このとき伊達氏は北朝に降伏している。時の当主だった伊達宗遠は信夫郡(福島市)の領地を没収され、逼塞を余儀なくされてしまった。それでも西暦1380年(南朝・天授6/北朝・康暦2)頃から次第に力を盛り返し、伊達郡に隣接する出羽国長井庄(山形県置賜地方)へ侵攻。1386年(南朝・元中3/北朝・至徳3)には長井庄を完全掌握、再び奥州の雄として復活を遂げていた。やがて伊達宗遠が亡くなり、嫡男の伊達政宗が跡を継いだ。もちろんこの政宗は有名な独眼龍政宗とは別人。伊達家の九代目であり官位が大膳大夫だったことから、後世の人々から独眼龍と区別するため〝九代政宗〟とか〝大膳政宗〟と呼ばれている。
九代政宗は伊達郡と置賜郡だけでなく、さらに宮城県の南部にまで勢力を拡大させることに成功。すると政宗は独自の外交を展開していく。四つの家に分裂していた奥州管領を和睦させたのだ。名目上は奥州の支配者であった奥州管領と対等に渡り合えたことは、伊達が堂々たる実力を備えた大名であることを内外に示した。
が、このことが鎌倉公方・足利満兼を刺激してしまう。満兼は「伊達は侮れぬ存在」だと認め「かつて南朝方だった伊達が易々と我らに従うとは思えぬ。弟たちの脅威となろう」と判断。そこである策を弄していくのだが、これが奥州にて〝鎌倉公方対伊達九代政宗〟という新たな火種を生み出していくことになる。 (了)
おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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