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十三人の合議制―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載97

 まず、鎌倉幕府を現代社会に置き換えて説明したい。あらかじめ〝鎌倉時代の武士=農園経営者〟〝幕府=農園経営者が設立した農業組合〟と例えておこう。

 鎌倉農業組合の初代理事長には源頼朝が就任し、将軍または〝鎌倉殿〟と呼ばれた。組合員たちは御家人と呼ばれ、組合員の要望を京の政府(朝廷)に伝えるのが理事長(鎌倉殿)の主な役目とされた――。源頼朝はこの仕組みを作り上げたところで、建久10年(1199)1月に急死。理事長職は世襲され、頼朝の子である源頼家が2代目理事長に就任する。が、このとき頼家は弱冠18歳。父の頼朝がいきなり亡くなったため、組合をまとめるすべを学ぶ時間がなかった。そのため頼家は「理事長がいちばん偉い」と独断的な振る舞いが目立つようになってしまう。これに主立つ組合員たちが反発。「先代は我々と共に歩んだ苦労人だが、2代目はとんでもないドラ息子だ」と、そっぽを向いてしまったのだ。結果、建久10年4月に組合員のなかから新たに13人の理事が選ばれ、頼家の独裁は強制的に停止される。そして、しばらくは〝13人の理事会〟によって鎌倉農業組合は運営されることになった。この仕組みは〝十三人の合議制〟と呼ばれ、ゆえに今年1月から始まるテレビドラマのタイトルも〝鎌倉殿の13人〟なのである。

 ちなみに理事に選ばれたのは、大江広元、三善康信、中原親能、二階堂行政、安達盛長、三浦義澄、和田義盛、梶原景時、比企能員、八田知家、足立遠元、北条時政と義時父子の13人。このうち福島県と関わりがあるのは中原親能、二階堂行政、安達盛長の3人である――。中原親能は武士ではなく下級貴族で、組合では政府との交渉役を務めていた。彼には大友能直という養子がおり、この能直が文治5年(1189)に奥州藤原氏との戦で活躍。恩賞として養父の親能に田村庄(福島県田村地方)と豊後国(大分県)が与えられた。このとき能直が九州に派遣され、もうひとりの養子であった藤原仲教に田村庄を分け与えられた。やがて仲教の子が田村氏を称し、郡山市田村町守山を拠点とすることになる。

 二階堂行政は優秀な組合の事務員で、奥州藤原氏を滅ぼした後の戦後処理で手腕を発揮。その恩賞として信夫郡(福島市)と岩瀬郡(須賀川市)を与えられている。行政はそれぞれに一族を派遣。信夫では鳥渡、岩瀬では須賀川を拠点として領地を支配させた。

 安達盛長については諸説あり一般的には「安達郡(二本松市)の地頭となった」と言われている。が、当時の安達郡は太政官(中央省庁のひとつ)壬生氏の領地だった。盛長は、妻が太政官と関係があったことから〝壬生氏の代官〟というかたちで安達の委託管理を任されていた、と考えるべきであろう。       (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。



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