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田村庄司の乱|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載129

 郡山市の東部から三春、田村市、小野にかけての旧田村郡は、かつて〝田村庄〟と呼ばれていた。田村庄の所有者は紀州の熊野神社(和歌山県)で、熊野神社は守山城(郡山市田村町)の武士・田村氏を庄司(管理人)に任命して土地を治めていた。

 南北朝の争乱(1336~1392)では熊野神社が南朝と縁が深かったことから、守山の田村庄司は一貫して南朝を支持。争乱が北朝の勝利に終わり足利氏の天下となっても、田村庄司は依然として足利氏に心服しかねていた。そのため足利氏が関東地方に設置した自治組織・鎌倉公方とも不和。すると田村庄司は、同じく鎌倉公方と争い下野国(栃木県)を追われた小山若犬丸を1391年(南朝・元中8/北朝・明徳2)頃に守山で保護している。

 このことを察知した鎌倉公方の足利氏満は、田村庄司を討伐しようと考える。だが田村庄司が小山若犬丸を匿っているという明確な証拠をつかめなかった。そこで氏満は、田村庄司と不仲だった白河の結城満朝を利用しようと思いつく――。応永元年(1394)秋、氏満は関東と奥州の武士に対し「鶴岡八幡宮を改築するので費用を出せ」と指示。そのうえで結城満朝には秘かに「わざと田村庄司へ割当金を押しつけろ」と命じた。満朝が言われたとおりにすると、田村庄司であった田村則義は当然「なぜ我らが白河の分まで負担せねばならんのだ」と激怒。もともと結城氏を敵視していたこともあり同年冬ついに白河へ宣戦布告。白河搦目城(白河市藤沢山)へ侵攻した。こうして後に〝田村庄司の乱〟と呼ばれる戦が始まったのである。

 攻撃をうけた結城満朝は、鎌倉の氏満に援軍を要請。しかし「田村が起つ」の報に接した関東の反足利派が一斉蜂起したため、氏満は援軍を差し向けることができない。そのため田村則義と結城満朝による白河搦目城での攻防は、翌年の応永2年(1395)夏まで一進一退の状況が続いた。


 戦況が変化するのはこの年の8月。この頃までに関東での戦が終決し、反足利派を一掃した氏満が白河へ援軍を送り始めたのだ。結果、兵力に劣るようになった田村勢が9月に御代田(郡山市田村町)まで退却。阿武隈川を渡らせまいと防衛線を敷いた。応永3年(1396)2月になると、いよいよ氏満が自ら大軍を率いて鎌倉を出陣。結城勢と合流し、御代田の西岸・篠川(郡山市笹川)に陣を構えた。こうなると兵力に勝る白河鎌倉連合軍が圧倒的に有利である。それでも田村勢の激しい抵抗を受け6月までは阿武隈川を渡河できなかった。が、最後は力押しで御代田の防衛線を突破。そのまま田村庄司の居城・守山城へとなだれ込む。田村則義とその子・清包は「もはやこれまで」と自刃。守山城は落ち、ここに田村庄司の乱は幕を閉じたのである。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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