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もうひとりの伊達政宗|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載132

 室町時代の日本を治めていたのは足利氏である。幕府の初代将軍となった足利尊氏は京を本拠としたため、関東地方での支配力が低下することを恐れた。そこで三男の足利基氏を鎌倉に派遣。父の尊氏から自治権を与えられた基氏は鎌倉公方を称し、関東地方に君臨する。やがて基氏が亡くなり息子の氏満が2代目鎌倉公方になると「なぜ俺は将軍になれないのだ」と、京の室町将軍・足利義満(尊氏の孫)に敵対心を抱くようになる。その思いは3代目鎌倉公方・満兼の頃に露骨となり、満兼は「奥州も支配して京に対抗すべし」と画策。応永6年(1399)春、弟の満直と満貞を奥州に派遣した。このころ鎌倉公方の直轄領となっていた田村地方を統治させるためである。

 応永6年春に鎌倉を経った足利満直と満貞は、まず白河結城氏の居城・搦目城に逗留した。そして奥州の武士たちへ「白河まで挨拶に来い」と命じる――。この命令に応じた武士の中に伊達郡梁川城の主・伊達政宗がいた。この政宗は伊達家の9代目で、独眼龍と呼ばれた17代目の政宗とは別人だ。後世の人々は室町時代の伊達政宗を独眼龍と区別するため〝九代政宗〟とか〝大膳政宗〟と呼んでいる。

 当時の九代政宗は伊達郡に加えて刈田郡(宮城県)と長井庄(山形県)を治める大勢力であり、鎌倉から来たばかりの満直と満貞をしのぐ軍事力を備えていた。しかし政宗は「満直と満貞と対立すれば関東すべてを敵にまわすことになる」と判断、ひとまずは、おとなしく白河へ参上したのである――。

 ところが満直と満貞は「伊達は我らを恐れて頭を下げにきた」と見くびってしまう。そのため白河で政宗を邪険に扱った。政宗ほど力のある者ならば白河搦目城の城下町に宿泊させるところを、町に入ることすら許さず「北へ40㌔離れた山中に泊まれ」と命じたのだ。この理不尽な指示に政宗は憤然とするが「とにかく今は事を荒立ててはならぬ」と不平を漏らさず指示に従い、満直と満貞への挨拶を済ませた。

 その後、政宗は梁川城に帰還。満直は安積郡篠川(郡山市笹川)に御所を構え篠川公方と、満貞は岩瀬郡稲村(須賀川市稲)に御所を構えたので稲村公方と呼ばれるようになる。


 応永6年秋、梁川城にいた政宗へ篠川公方から手紙が届いた。これを読んだ政宗は仰天する。公方は「領地を無償で割譲せよ」と要求してきたのだ。武士にとって領地は命がけで守らなければならないもの。ただで渡すなど言語道断である。それでも政宗は怒りを堪え、長井庄から数カ村を譲ることにした。

 ところが公方が「それでは少ない」と返答したため、ついに政宗の堪忍袋の緒が切れてしまう。「かくなるうえは篠川公方と一戦まじえ公方の非道を糺すべし」と、挙兵を決断したのだ。(了)


おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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