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郡山には鎌倉時代の町があった―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載96

(2021年12月号)

 1996年。郡山市に県の多目的施設〝ビッグパレットふくしま〟が建てられることになった。着工に先立ち建設現場の発掘調査が行われたのだが、ここで驚きの発見がある。鎌倉時代(13世紀)の遺跡が地中から出現。それは〝町の跡〟だったのである。その後、調査が進むと地名にちなんで〝荒井猫田遺跡〟と名づけられた。

 町の規模は南北150㍍以上、東西70㍍以上にも及ぶ広大なもの。そこから200軒以上の住居跡が発見され、実際の町の範囲は東西にもう少し広かったため、その5倍の家々が立ち並んでいただろうと推定された。一軒につき2人しか住んでいなかったとしても2000人が暮らす町だったわけである。鎌倉時代の日本の総人口は約700万人だったから、これと比定すると町と呼ぶしかない。遺跡からは磁器や木製や鉄製の様々な生活品が数多く出土しており、また古銭も大量に見つかっている。ということは商業の町として栄えていたことは間違いない――。町の中央を幅6㍍の道が南北に貫いており、これは中世の官道〝奥大道〟であると判明。さらに町の東には阿武隈川が流れていることから、荒井猫田にあった町は陸上交通と水上交通(舟渡場)の要衝として発展したのである。

 さらに町の中心部からは〝木戸門〟の跡も見つかっている。これは町中と郊外を隔てるための門。ということは町が自然的に発生したのではなく、人為的に形成されたと考えられる。「ここに町を作ろう」という意図があったから、範囲を定める木戸門を設けたわけだ。また門が町の中央から発見されたということで、荒井猫田が〝北の町〟と〝南の町〟に分かれていたことも判明している。どうやら先に南側で鎌倉時代の町が形成され、その後の時代になって町は北へ移ったようである。ちなみに町の北端と南端には、それぞれ武士の館があった。南の館に住んでいた武士が鎌倉時代の〝南の町〟を支配し、新たに北側で館をかまえた武士が〝北の町〟を治めたのであろう。つまり「武士が館を築き、その周辺に人々が集まってきた。そこで武士は木戸門を設けて町の範囲を定めた」という経緯だったわけである――。鎌倉時代の安積郡(郡山市)を支配していたのは伊東氏だが、安積には執権北条氏の一族・塩田氏の所領もあったことが分かっている。おそらく荒井猫田の南に館を築いたのは塩田氏であろう。執権北条氏は奥州支配のために安積を重視、ここに一族の拠点を置いていた。そして幕府の最高権力者の分家がいたからこそ、その下に多くの人が集まったのだろう。

 よく「郡山には歴史がない」と言われるが、その評価は荒井猫田遺跡の存在で否定された。郡山(安積)は鎌倉時代、すでに政治経済の要衝として栄えていたのである。  (了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。



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