台風溺死の南相馬市職員《生死分けた「三つの認識の甘さ」》
調査委報告書に遺族が心境吐露
昨年10月の台風19号(東日本台風)で災害対応業務に当たった南相馬市職員が帰宅途中に亡くなった問題で、原因の究明と再発防止策の検討を行っていた第三者による調査委員会は6月8日、報告書をまとめ門馬和夫市長に提出した。門馬市長は「内容を精査し、しっかり対応していく」と語ったが、職員の父親は報告書の内容に納得していない。
亡くなったのは小高区地域振興課主事の大内涼平さん(当時25)。大内さんは小高商業高校(現・小高産業技術高校)1年生の時に東日本大震災と原発事故を経験。高校卒業後は仙台市の専門学校を経て「地元の復興に貢献したい」と南相馬市役所に就職、昨年4月から小高交流センターに勤務していた。台風19号が襲来した際には小高区役所などで災害対応業務に当たっていた。
亡くなった大内涼平さん
当時の報道によると、大内さんの亡くなる直前の足取りはこうだ。
10月13日午前0時半ごろ、同居する両親に「これから帰るから鍵を開けておいて」と電話し、同区役所から原町区の自宅に車で向かった。しかし直後に「車が水没し脱出した」と同区役所に連絡があり、以降電話は通じなくなった。
そのころ家族も、帰宅しない息子を心配して探しに出ようとしたが、近くの川が氾濫し道路が冠水して身動きが取れなくなっていた。同区役所に電話すると「本人から『車が水没した』という連絡があった」と伝えられた。
午前2時半ごろ、警察が小高川にかかる橋に近い同慶寺前交差点付近で大内さんの車を発見したが、車内には誰もいなかった。
午前5時半ごろ、車から50㍍離れた農地で雨合羽に長靴姿の大内さんを発見したが、すでに亡くなっていた。車外に脱出後、急流にのみこまれ溺死したとみられる。
当時、市役所内からは「大内さんの死は〝人災〟だ」との声が漏れ伝わっていた(理由は後述する)。遺族も「なぜ深夜に帰宅させたのか」と市の対応に不信感を募らせた。そこで門馬市長は、原因の究明と再発防止策を検討するため、第三者による「南相馬市職員の公務死亡事案に関する調査委員会」を設置(メンバーは別掲の通り)。同委員会は今年1~6月にかけて4回の委員会を開いたほか、12回の調査日を設け、「南相馬市職員の公務死亡事案に関する報告書」をまとめた。
同報告書は6月8日、同委員会から門馬市長に提出されたが、そこには大内さんと上司らとの間で「帰宅ルートの選択」をめぐるやりとりがあったことが詳細に書かれていた。
以下、同委員会が記者会見用に作成した「報告書説明資料」から抜粋する。
《係長は大内主事に対し、12日22時から13日0時30分までの間、同人が旧国ルート(別掲地図①。大内さんが普段通っていた帰宅ルート)で帰宅するのは危険なのでこれを避けるようにとの注意と、同人が安全に帰宅できるよう小木ルート(別掲地図②)の説明と、同ルートでの帰宅指示を2、3回行った》
《係長は、自身が12日20時30分頃に小高区役所の避難者を小高中学校に移動させた際、旧国道は区役所の西側に向かって冠水していて自動車が通れなかった経験等、旧国ルートを自動車で通行すると冠水する危険があることを大内主事に伝えた。また、係長が大内主事に説明した小木ルートは当時浸水箇所がなく通行に支障がなかった》
《次に、小高区対策部地域振興班内では、旧国ルートの内、区役所前から西側に向かう道路の冠水情報、同慶寺前交差点付近の冠水情報及び、区役所所長が当時小木ルートを安全に通行できたとの情報等が共有され、災害情報の集約される無線基地や冠水箇所等を随時手書きした地図が係長や大内主事のデスクと近接した距離にあった他、大内主事は、パソコンで市の災害対策本部等が発信するタイムリーな防災情報を随時閲覧していた。したがって、13日0時30分頃までの時点で旧国ルートの危険性と小木ルートの安全性についての班長や係長を含む班側の認識とこれらについての大内主事の認識に大きな差があったとまでは認められず、両者の間で帰宅ルートの選定に必要な情報の格差があったとは認められない。また、係長は大内主事に対し、2、3回、旧国ルートを利用して帰宅する場合の危険性を説明し、帰宅する場合は小木ルートを利用するよう指示したが、これが大内主事の意に反してなされたとの事情はなく、帰宅ルート選定は、想定される帰宅ルートのうちどのルートが相対的に安全かという比較的単純な判断で、各々のルートも複雑なルートでもない。したがって、大内主事が指示されたルートと異なる旧国ルートで帰宅することを、小高区対策部地域振興班が予見すべきであったとまでは認められず、この行動を当時の状況から通常予見できたとは認められない。よって市側の判断が本件事故を招いたとまでは認められない》
《もっとも、市側の大内主事への危険回避情報の提供内容に何ら問題がなかったわけではない。係長が旧国ルートの危険性について主に区役所前を西側に向かう道路の冠水状況については大内主事に複数回説明したものの、同慶寺前交差点付近の冠水浸水情報については帰宅ルートの指示に絡めて注意喚起をしておらず班内で共有されていた一般的な防災情報として大内主事に提供されていたにとどまっていた。これに13日0時以降に区役所周辺の雨足が弱まったことも合わさって、大内主事が指示されたルートと異なる旧国ルートで帰宅するとの判断を思いとどまらなかった可能性がある。この意味で、市側の大内主事への危険回避情報の提供内容に盲点があり、大内主事が指示した帰宅ルートと異なるルートを選択する可能性を考慮できなかった点は市側の課題である》
小木ルートへの不安
これだけ読むと、上司らは大内さんに安全な小木ルートで帰宅するよう再三指示したにもかかわらず、大内さんが従わず、危険な旧国ルートで帰宅した結果、亡くなった――と、大内さん側に非があるような印象を受けてしまう。
「私も、そこがどうしても納得がいかない点です」
と語るのは、大内涼平さんの父・敏正さん(56)だ。
「確かに、息子の判断には甘さがあったと思う。ただ、旧国ルートで帰る判断を下すまでには、いろいろな考えをめぐらせたはず。そこを汲み取ってもらわないと、指示に従わなかった息子が悪いという印象だけが先行しかねない」(同)
敏正さんは「本人が亡くなった以上、何を言っても推測ですが……」と前置きし、涼平さんの当時の心境を〝代弁〟する。
「息子は、上司が指示した小木ルートを一度も通ったことがなかったと思います。私も今まで生きてきて2、3回しか通ったことがない。そんな初めてのルートを深夜に、しかも風雨が少し収まっていたとはいえ台風の中を通るのは、かなり不安だったと思うんです」(同)
そのうえで敏正さんは、涼平さんの性格上、上司らに「小木ルートはよく分からない」「そっちを通るのは不安だ」と言い出せなかったのではないかと指摘する。
「同委員会の平間浩一委員長は調査の一環で小木ルートを通り『問題なかったと思う』と感想を口にしていたが、それは天気の良い日中に通った場合の話です。深夜に台風の中を通れば感想はだいぶ変わると思います」(同)
6月中旬、よく晴れた日の午後3時ごろ、記者も涼平さんが普段通っていた帰宅ルートと小木ルートを車で走ってみた。
普段の帰宅ルートは、小高区役所から自宅までの距離が5・5㌔で8分かかった。綺麗に舗装され、運転しやすい道路が続くが、涼平さんが亡くなった同慶寺前交差点付近は小高川にかかる橋から下った地点にあり、昨年の台風時は一帯が川のように浸水していたことが想像された。
一方、小木ルートは、小高区役所から自宅までの距離が6・3㌔で10分かかった。最初に上り坂が長く伸び、これなら確かに浸水の心配はないが、一帯は山林で道路沿いにメガソーラー発電所が広がる以外は目印がなく、深夜に通るのは心細い。その後もくねくねとした細い道路が続き、自宅から2㌔ほど手前でようやく国道6号付近にぶつかるが、そこに到達するまでは不安感が拭えないだろう。
「上司らがどのような言い方をしていたかも気になります。『旧国ルートは絶対通るな』『命の危険にかかわる』と強く注意喚起していれば、息子も『小木ルートは通ったことがないので不安だ』と相談できたかもしれない」(敏正さん)
表面的には帰宅ルートの選定が明暗を分けたかもしれない。しかし、敏正さんは「三つの認識の甘さ」が重なり、今回の悲劇につながったと考えている。
「一つは息子の認識の甘さ。大丈夫だろうと旧国ルートを選択したことが命を落とす結果につながった。二つは上司らの認識の甘さ。『まさか旧国ルートで帰宅することはないだろう』という考えが、そっち(旧国ルート)は絶対通るなという注意喚起に至らなかった。そして三つが門馬市長の認識の甘さ。『深夜に帰宅するな』という明確な指示を出さなかったことは、組織のトップとして問題だと思います」(同)
門馬和夫市長
そもそも涼平さんは、10月12日に出勤する際、家族に「今日は泊まりだ」と告げていたという。それだけに敏正さんは「泊まっていれば亡くならずに済んだ」「なぜ深夜に帰宅させたのか」と、市の対応に不信感が拭えないのだ。
「市に過失はなかった」
遺族の不信感を一層増幅させたのが門馬市長の発言だ。門馬市長は昨年11月5日の定例会見で、前述・調査委員会の設置を発表した際、「今のところ市の対応で明らかな過失はなかったと考えている」(読売新聞県版昨年11月6日付)と述べたのだ。遺族への配慮を欠いた発言は、多くの市民を呆れさせた。
元市幹部はこう指摘する。
「全庁的な判断で職員に帰宅を指示したのか。それとも小高区役所の単独判断で帰宅を指示したのか。もし全庁的な判断なら、まだ風雨が収まっていない深夜に帰宅させたのは明らかな間違いです。もし同区役所の単独判断なら、本庁の災害対策本部が指示していないのに勝手に帰宅させたことになり、組織の規律が整っていない証拠です。調査委員会の報告書は、読んだ人に『大内さんの判断ミスが原因』と思わせる書き方になっているが、本人の問題ではなく、明らかに組織の問題だと思う」
同報告書の中には、大内さんに帰宅指示が出された経緯が次のように書かれている。
《13日0時30分をもって班長より大内主事の勤務が解除された。この判断は12日23時過ぎの第4回災害対策本部会議において、災害対応業務にあたる職員の配備態勢の再構築が決まり、このことが13日0時過ぎに市の災害対策本部より小高区役所にも通知され、この通知を受けて係長が大内主事の勤務継続について検討し、係長が班長に大内主事の勤務解除を提案したことを踏まえて行われたものである》
つまり、全庁的な判断で帰宅指示が出されたことになるが、報告書にはこんな記載もあった。
《大内主事は、12日から13日にかけて小高区役所に参集し災害対応業務を担っていた職員のうち13日0時30分をもって任務が解消された唯一の職員であった》
大内さんが任務を解かれたのは、避難所として利用された小高交流センターが13日午前8時30分から通常通り開所されることが決まり、それに合わせて大内さんも出勤する必要性が生じたからだ。しかし、13日は各地から水害の報告が次々と上がっていた。そうした中で同センターを通常通り開所したところで、一体誰が利用するのか。市によると、実際に開所するかどうかは13日朝に決める予定だったというから、ここに判断ミス、すなわち〝人災〟があったと言えるのではないか。
「市に過失はないと言いながら調査委員会をつくった門馬市長の行為は明らかに矛盾している。職員の安全を守れない市長が市民の安全を守れるはずがない」(前出・元市幹部)
遺族と正面から向き合え
もう一つ気になることがある。それは、同報告書が遺族に渡されていないことだ。敏正さんによると、調査委員会が門馬市長に報告書を提出する前日(6月7日)、市役所に呼び出され、同委員会から「明日、この内容で市長に渡す」と告げられたという。
「ですから、その場で報告書案は一読したが、それに意見したところで内容が変わる雰囲気はありませんでした」(敏正さん)
この対応にも、前出・元市幹部は首を傾げる。
「まずは遺族に謝罪することが先決なのに『事実関係はこうだった』と報告書案を示すのは、あまりに冷たすぎる。謝罪すれば市側の非を認めることになり、多額の損害賠償を支払う恐れも出てくるから、まずは第三者委員会に〝事実認定〟してもらい、そのうえで市の対応を決めようという魂胆が透けて見える」
遺族に報告書を渡さない理由を、市総務課は次のように説明する。
「市としては報告書を受けてどのような再発防止策を講じるかが最も大事と考えています。再発防止策がまとまらないうちに、ただ報告書だけお届けしても、ご遺族は納得しないと思います。きちんと中身(再発防止策)が伴った段階で、あらためてご遺族のもとをご訪問したい」
しかし、いつまでに再発防止策をまとめるのか尋ねると「何とも言えない」(同)とのことだった。
報告書には調査委員会が示した教訓や改善策が複数挙げられている。にもかかわらず、再発防止策の取りまとめに時間がかかれば、遺族の心象は悪くなるばかりだ。しかも敏正さんは「報告書案に書かれていた改善策は正直物足りない」と漏らしている。市は中身の伴った再発防止策を早急にまとめ上げ、1日も早く遺族のもとを訪問すべきだろう。
昨年12月、涼平さんの死は公務災害と認定された。しかし、敏正さんは再発防止策の中身も含め、市の今後の対応次第では対決姿勢も辞さないと覚悟している。
「正直、裁判はやりたくない。どんな額の賠償金を提示されても『これが息子の命の価値か』と愕然としてしまうからです。一方で、きちんと誠意を示してもらわなければ息子が報われないという思いもある。親としては、市が今後どういう対応をするのか冷静に見極めたい」(同)
市に過失はない、などという逃げの姿勢ではなく、遺族と正面から向き合う誠実さが問われている。