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白河の武士 結城親光―岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載108

 14世紀の白河郡に結城親光という武士がいた。領主・結城宗広の次男である。親光には親朝という兄がおり結城家と白河領を相続することになっていた。そのため親光は鎌倉で北条氏に仕えていたようである。

 元弘3年(1333)4月、結城親光は足利尊氏とともに上洛。鎌倉幕府の出先機関であった六波羅探題を攻め落とした。この戦が契機となり各地で討幕の動きが活発化、5月には鎌倉が陥落し幕府は滅亡した。

 そして7月には後醍醐天皇が自ら政治を行う〝建武の新政〟を宣言する。このとき後醍醐は、六波羅の戦いで活躍した親光に目をつけ、政権の要職に抜擢することにした。まず武士への土地授与を決める〝恩賞方〟の奉行に任命。さらに土地をめぐる争いを裁く〝雑訴決断所〟も兼任させたのである。この2つは、武士の要望にこたえる建武政権にとって最も重要な組織であり、そこへ地方武士で一族の長でもない親光が加わるということは極めて異例であった。

 いったい後醍醐は、親光の何を気に入ったのであろうか? 詳細は不明だ。が、父の宗広も天皇から信頼され陸奥将軍府の幹部として奥州に君臨していたので、単に〝宗広の子〟だったから重用されたのかもしれない。というのも親光の能力については当時から疑問視されていたようで、失政つづきの建武政権を世間が批判した〝二条河原の落書〟に「能力の有無の判断もなく雑訴決断所にいる者」と書かれる始末であった。


 ところが、そんな評価が一変する出来事が起きる。建武3年(1335)12月、足利尊氏が鎌倉で建武政権に謀反、箱根で討伐軍を打ち破ると勢いに乗じて西上を開始した。翌年1月11日に尊氏は京を占領。後醍醐を比叡山へと追いやった。このとき親光は天皇の身辺を警護していたが、足利軍が入京するとその軍門に降っている。だが、親光の投降は偽りであった。

 足利軍が宿営していた東寺を訪ねた親光は、応対した大友貞載という武将に「尊氏に会って許しを得たい」と申し出た。すると貞載が「では降参の作法に従い甲冑と武器を捨てろ」と返答。これを聞いた親光は「見抜かれた」と早合点する。じつは投降したと見せかけ、尊氏を暗殺しようと考えていたのである――。すでに親光は頭に血がのぼっていたようで、あくまで当時の作法を守らせようとしただけの貞載の言葉を勘違いし「もはやここまで」と、いきなり抜刀し斬りかかった。あわてて警備兵が集まり親光を取り囲む。孤立無援となった親光だが、ひるむことなく敵兵と交戦。多くの者を死傷させ、最後は力尽きて討死した。

 この報告をうけた尊氏は、たとえ一人でも後醍醐への忠節を貫こうとした親光を称賛。「武士ならば皆こうあるべき」と述べたという。そのため結城親光は後世〝比類なき忠臣〟と讃えられるようになった。
(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。

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