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伊達政宗の乱|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載133

 室町時代の天下人だった足利氏は、京を本拠として幕府をひらいていた。そのため関東地方での支配力低下を懸念し、一族を鎌倉に派遣。この一族は鎌倉公方と称し強大な自治権を得ていた。3代目の鎌倉公方・足利満兼は「奥州も支配して京の将軍家に対抗しよう」と画策。応永6年(1399)の春に足利満直と満貞という2人の弟を奥州へ送り込んだ。満直は安積郡篠川(郡山市笹川)に腰を据えたので篠川公方、満貞は岩瀬郡稲村(須賀川市稲)に御所をかまえたので稲村公方と呼ばれるようになる。

 応永6年の夏、篠川に着任した足利満直は「自分には領地がない」ことに不満を感じていた。安積郡には伊東氏という一族がおり、新たに土地を得る余地がないのだ。そこで満直は、伊達郡を中心に広大な領地を抱える伊達政宗(九代目/独眼竜とは別人)へ「土地を割譲せよ」と要求。これに激怒した政宗は「満直のいる篠川御所を攻める」と宣言。およそ500の軍勢を率いて居城の梁川城(伊達市)を出陣した。すると大崎地方(宮城県)の大名・大崎詮持もこれに呼応。伊達と大崎は連合軍となって篠川に迫ろうとした。


 一方、篠川の満直は「伊達政宗が謀反」との報に仰天。応戦しようにも領地がないのだから兵がいない。それは稲村にいる弟の満貞も同様だ。やむなく満直と満貞の兄弟は、白河の大名・結城満朝を頼ることにした。このころ奥州で伊達氏に匹敵する力を持つのは白河結城氏しかいなかったからである――。救援を要請された結城満朝は、両公方を搦目城(白河市藤沢)に迎え入れ、まずは搦目城で政宗を迎え撃とうとした。この城は標高400㍍の小山全体を要塞化した天然の要害。満朝の予想通り、白河に着くや攻撃を開始した政宗も、さすがに攻め落とすことができない。戦況が膠着状態に陥ると、白河郡の方々から結城の一族が援軍に駆けつけてきた。その数3000以上。大崎の軍勢を含めても1000に達していなかった伊達軍は劣勢に追い込まれていく。

 結果、政宗は退却を指示。となると攻守逆転、今度は白河結城の軍勢が逃げる伊達軍を追撃してきた。乱戦のなか大崎詮持は大越(田村市)まで逃れたところを討ち取られてしまう。また政宗も梁川城に戻れず、峠を越え長井庄(山形県)まで敗走。伊達は滅亡寸前にまで追いつめられてしまう――。が、ここで思わぬ人物が政宗へ救いの手を差し伸べた。京にいた3代将軍・足利義満だ。実は政宗の妻が、義満の叔母にあたる女性だったのだ。さらに義満は「伊達が滅びると奥州は篠川と稲村両公方のものとなり、鎌倉公方の力が増すことに繋がる」と考え、両公方に対し「ただちに停戦せよ」と命じた。幕府将軍の命令となれば公方とて無視できない。そこで両公方は満朝を撤退させ、反乱は終決した。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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