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足利満直と満貞|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載130

 郡山市の東部から三春、田村市、小野にかけての旧田村郡は、かつて〝田村庄〟と呼ばれていた。田村庄の所有者は紀州の熊野神社(和歌山県)で、熊野神社は守山城(郡山市田村町)の武士・田村氏を庄司(管理人)に任命して土地を治めていた。

 室町時代の応永元年(1394)冬、田村庄司であった田村則義は、関東を統轄した鎌倉公方・足利氏満と対立。鎌倉派だった白河の結城満朝を攻撃し〝田村庄司の乱〟になる。兵力に劣りながらも当初は善戦した田村勢だったが、鎌倉公方が大軍を率いて奥州に出陣してくると敗色濃厚に。そして応永3年(1396)6月、ついに守山城を攻め落とされ、則義とその子・清包は自刃。鎌倉時代から約200年にわたり田村庄を治めてきた田村庄司は滅亡した。

 一方、勝利した足利氏満は「田村庄は鎌倉公方の直轄領とする」と宣言。とはいえ田村庄の地主は熊野神社であり、すべてが鎌倉公方の領地になったわけではないようである。氏満が熊野神社とどのように田村庄を分割したかは不明。ともかく氏満は代官に結城満朝を任命したうえで応永3年7月に鎌倉へ帰還した――。すでに室町幕府の将軍・足利義満より奥羽支配のお墨付きを与えられていた氏満は、奥羽を実効支配するための足掛かりを得たわけである。彼は「いずれ義満を討ち自分が将軍になる」という秘かな野望を抱いており、そのためには多くの兵を必要としていた。


 「奥羽の武士すべてを意のままに動かしたい」と考えた氏満は、さらに手を打つ。自分の三男・満直と四男の満貞を田村庄に派遣し、鎌倉公方による奥羽支配を強化しようと目論んだのだ。ところが戦から2年後の応永5年(1398)11月、氏満は病に倒れ急死してしまう。鎌倉公方は嫡男の満兼が継承するが、満兼は当時まだ20歳と若く、父の死により混乱する鎌倉を、なかなかまとめられなかった。結果、満直と満貞の奥羽派遣も延期に。新公方の政権が安定した応永6年(1399)冬になり、ようやく満兼は弟たちを奥羽に送り込むことにした。

 満直と満貞は生年不明のため、このとき何歳だったかは分からない。ただ長兄の満兼が永和4年(1379)生まれなので、三弟の満直は早くても康暦3年(1381)に誕生したと推測される。とすると応永6年の段階で満直が19歳、満貞18歳くらいであろうか。

 兄の満兼は「年若な2人を数年前まで敵地だった田村庄に腰を据えさせるのは危険だ」と判断したようで、いったん鎌倉公方に従う武士に後見させることにした。その結果、満直は安積郡(郡山市)の武士・伊東氏を、満貞は岩瀬郡(須賀川市)の二階堂氏を頼ることに。2人を別々に住まわせたのは、互いに牽制し合いどちらかに権力が集中せぬよう、満兼が配慮したのであろう。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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