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宇津峰の決戦|岡田峰幸のふくしま歴史再発見 連載122

 南北朝時代の西暦1351年(南朝・正平6/北朝・観応2)12月、奥州の南朝大将・北畠顕信は陸奥国府(多賀城)を奪還。しかし1352年(南朝・正平7/北朝・観応3)閏2月になると北朝の奥州管領・吉良貞家の逆襲が始まり、同年3月11日に南朝はまたも国府を奪われてしまった。

 北畠顕信は南朝皇子の守永王を伴って伊達氏の領内にあった大波城(福島市)へ避難。だが伊達氏はこのころ力が衰えており「ここでは北朝の攻勢をしのげない」と顕信は判断。そこで3月24日までに宇津峰へ入城した。宇津峰は郡山市と須賀川市にまたがる標高677㍍の独立峰。南北朝時代は山全体が修験道の道場であり、大小無数の仏堂が山中に建つ大寺院であった。顕信はこれを城塞に見立てたのである。さらに宇津峰を含む田村地方の領主・田村氏は熱烈な南朝方であり、まだまだ戦意が高い。田村氏は宇津峰の北西に位置する居城・守山城(郡山市)のほか東は郡山市の柴塚、西は郡山市の御代田、南は須賀川市の江持など四方八方に10カ所以上の城を構築。顕信と守永王のもとへ敵が容易に近づけぬよう防備を強化した。

 一方、3月11日に国府を再奪取した吉良貞家だが、すぐに南へ追撃しようとはしなかった。慎重な武将だった吉良は「福島県の武士をすべて従えてから宇津峰を攻める」と考え、まずは入念に根回しをする。結果、3月下旬までに福島県だけでなく奥州すべての武士が北朝に従属。もはや南朝に味方するのは田村氏のみという情勢となった。正確な兵力差は不明だが、おそらく南朝が最大でも3000だったのに対し、北朝は1万には達していたと思われる。そのうえで吉良は国府を出陣。4月1日に日和田城(郡山市)に着陣した。宇津峰までの距離はわずか28㌔である。それでも吉良は突入に踏み切ろうとはしない。あくまで慎重に「先に周囲の出城をしらみ潰しにする」と配下の武士たちに命じたのである。


 4月2日、最初に北朝が標的としたのは安積郡(郡山市)の佐々河城。現在の郡山市笹川で阿武隈川の西岸に位置する。つまり田村氏は阿武隈川を越え、安積郡にも拠点を確保していたわけだ。当時の阿武隈川にはどこにも橋が架かっておらず、渡し舟が使用されていた。安積郡にも数カ所の渡し場があったが、通行量が多く要衝とされていたのが佐々河城近くの渡し場だった。となると北朝にとって最も目障りなのが佐々河城であり、ここさえ突破すれば阿武隈川の東に点在する田村の出城を攻撃しやすくなる。しかし兵力に劣る田村勢は必死に防戦したようで、なかなか佐々河城は落ちない。そこで吉良は佐々河城攻略を継続しつつ、さらに「北から守山城を、南から江持城(須賀川市)も同時に攻撃せよ」と味方に指示。戦場が一気に拡大していくことになった。(了)

おかだ・みねゆき 歴史研究家。桜の聖母生涯学習センター講師。1970年、山梨県甲府市生まれ。福島大学行政社会学部卒。2002年、第55回福島県文学賞準賞。著書に『読む紙芝居 会津と伊達のはざまで』(本の森)など。
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