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ヨガの学び方

昨日はヨガの目的について、ぼんやりとしたことを綴りました。

私の書くものは、答えをはっきりと出さない文章ですので、もやもやしてしまうと思います。

ですので、知識の下支えを求める人にとっては、おもちゃもゴミも散かし放題の子供部屋のようなものでしょう。片づけたくてウズウズするか、自分だったらどう思うだろうって、愛でてみるか。。

今日はヨガの学び方について書いてみます。

沙門という立場

私の学んでいる故・沖正弘師の著書には「ヨガは密教である」という言葉がよく見られます。その考え方の中にあるのは、「沙門」という立場です。

沙門(しゃもん、梵: Śramaṇa, シュラマナ、巴: Samaṇa, サマナ)は、古代インド社会に於いて生じた、仏教・ジャイナ教などヴェーダの宗教ではない新しい思想運動における男性修行者を指す。「つとめる人」の意。桑門、勤息、貧道とも言う。後に仏教では比丘と同義になった。          -ウェキペディア‐

沖正弘先生は、新しい思想を持つ修行者という意味で、沙門を使われたと思います。すなわち、自由思想。ゴータマシッダールタの時代においては、バラモンという特権階級とヴェーダ思想が政治や宗教の中心(常識)であった時代です。その時代に、「今の世をみて、思うところあり、何が本当のことなのか本質を見極めるために、出家し、修行に勤めた」自らの王国(富)を捨て、立場(名声)をすてた王子であるシッダールタは、変わり者であったと思います。そんなシッダールタの生き方は沙門であるとし、またヨガの学び方も沙門であるべきだと説いたのです。

ヨガの思想や哲学

思想って何気なく使う言葉ですが、どんな意味だろう。

ということでウェキペディア

思想(しそう、英: thought)は、人間が自分自身および自分の周囲について、あるいは自分が感じ思考できるものごとについて抱く、あるまとまった考えのことである

思想というのは、まとまった考えであり、自ら抱くもの。あらゆる思想がこれまでに生まれ、それが人に伝播し、社会のうねりとなってきましたが、もとは一人の「思い方」が思想であるとのことでしょう。

では、ヨガの思想は?

言葉としては、ちょっと成り立たないのかなとも思います。

ヨガそのものが、「人」ではないですから、ヨガが考えていること、思っていることはないわけです。あくまでも、ヨガという言葉や体験からくる思い方や考え方というものが、それぞれの個人に浮かび上がるものでしょう。

ということは、ヨガの体験の仕方や学び方、そしてその個人の経験に基づいて「思想」という思い方は多様になりますね。

ですので「ヨガ思想」というはっきりしたものは無いんじゃないかと思うわけです。どう思おうと勝手ですし。

そして、哲学。

哲学は「真理を愛する」という意味を表す言葉を日本語訳にしたものです。

哲学は、「みんながそういうけれども、果たして本当か?」という、究極の事実=真理に近づこうとする『姿勢』や『生き方』という意味を含んでいると感じます。

ヨガ哲学という言葉は頻繁に使われています。

古代インド、ギリシャなど、多くの学問(知識階級)が発展し、それぞれに哲学を深めていきました。それが、文字として残るもの、経験として口伝継承されてくるもの、宗教という形となり信仰の中心となったものなど様々な形となりました。

現在のヨガ哲学の中心的経典とされるヨガスートラも、サーンキヤという哲学背景をもつ理論展開と実践書であると言われます。

では、サーンキヤ哲学だけがヨガ哲学かというと決してそうではありません。

「真理を愛し、それを探求する」ことが哲学的な生き方ですから、決して一つの哲学の信者である必要はないのです。

しかし、だからと言って、あらゆる哲学を否定的に論ずる姿勢でいる必要もありません。

まず実行 ただ実行

「誰が聞いても、なるほど、確かにそうだ」と、深い理解につながる考え方や思い方や行い方が哲学であり哲学的表現となります。

自分の想いだけでは、思想です。

それが、人に伝わっていったときに、「深い理解」とともに受け入れられていく考え方となった時、「哲学」となると思うのです。

そのために、自分の考え方と共に、人の考え方(過去も現在も)からも学び、実践し、確かめていくことが「哲学的」勉強の仕方となります。

経験的理解が大切であるのです。

計算による真理への探究も、徹底的な計算の実践という取り組みが伴って初めて「理解」になりますね。公式を覚えるだけでは理解とは呼べません。

ヨガも同じく、理論や効能だけの暗記では「知ってる」だけなのです。

素晴らしい効果、深遠な知恵からくる人生の豊かさは、取り組んだ人だけが理解する体験であり、真理です。

人が言ったからといって、そのまま信じてしまうことを「盲信」といいます。

どれだけの権威のある方が、「水は飲める」といったところで、飲んでみないと「正しい理解」はできないのです。

では、ヨガの哲学を学ぶにはどうすればよいか?

「ただ、ただ実行、そして実行」なのです。

良い先生との出会い

あらゆる参考書がありますが、参考書は一般的な事柄を述べるにすぎず、参考書が『私』を見てはくれません。私が参考書を見ているだけです。

「照らす」ものという存在を師(guru)と表現されます。先生といってもいいですね。

もちろん参考書も悪くはありません。

しかし、困難で危険な道であればあるほど、手ほどきやガイドが必要です。

ヨガの学びを哲学的にするのであれば、良いguruとの出会いがあればいいと思います。

ぜひ、ヨガを始めるのであれば、『私を照らして導いてくれる』guruを探しましょう。

真理の探究を、沖先生は道を求めることと言い、『求道(ぐどう)』と表現しました。そしてヨガの実践者のことを、求道者と言いました。

求道のために、自然現象から学ぶことももちろんたくさんあります。

自然界を師とした学び方もあると思いますのでもちろんいろんな学びの姿勢が合っていいと思います。

私はヨガを学ぶには「良き師」との出会いがあったほうが深まりやすいなと思うのです。


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生活とヨガと夢(生活ヨガ研究所のブログ)
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