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ヨガの意識
昨日はヨガの学び方について、ぼんやりとしたことを書きました。
結局のところどうやねん?と言われても、
「個人個人の取り組み方」があるもの。という帰結になっていくのが私の思考だと、自分で気づいております。
さて、そんな幅広いヨガの学び方のなかで、これは大事だなと思うことを一つ書いてみます。
「意識」です。
意識とは?
意識してください。
と良く言われますね。
「筋肉の伸びへ意識を向ける。」
「自分の姿勢へ意識を向ける」
「身体の感覚の変化へ意識を向ける。」
「自らの感情に意識を向ける。」
「無意識から湧き上がってくるものへ意識を向ける。」
さらには
●集団意識
●意識が無くなる
●自意識
●意識改革
●プロ意識
意識って、当たり前のように使いこなしているように思いますが、どこからくる、何の力なのでしょう?
というわけでウェキペディア先生
意識(いしき、Consciousness)は、一般に、「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」を指すただし、歴史的、文化的に、この言葉は様々な形で用いられており、その意味は多様である。哲学、心理学、生物学、医学、宗教、日常会話などの中で、様々な意味で用いられる。
すべてに共通していることとして、「意識」というものが働いているのは「起きている時」な気がします。しかし、夢を覚えていることがありますね。睡眠中の夢。あの場合には、寝ているが、意識があるのですね。
起きている時にも夢をみることもしばしば(私はあまりないですが)。
夢というのは、はっきりとした覚醒はないけれど、若干起きているか、若干寝ているかという状態ですね。ですので、いずれにせよ、「ちょっとは起きている」んだと思います。
ですので、意識するには「起きていること」が重要なのです。
起きるとは
いま、あなたは起きてますか?
はい、起きてます。
みんなこう答えますね。
だって、読んでますし。
たとえ布団の中で、スマホでこれを読んでいたとしても、起きていますと答えますね。
ですので、「起きている」という言葉はここでは、「寝転んでいることの対比」でないのだということです。また座っていても、寝ていても、起立していても起きていることになります。逆に、座ってても、居眠りしてたら起きていません。
起きているというのは、目覚めている、覚醒している、醒めている、覚めている状態をいうのです。瞼は閉じていても、醒めていれば起きています。
意識すること
意識という状態を「行動」することを「意識する」と言ってます。
意識は何かを対象にすることで働くものです。
そして、その対象との繋がりが、強く、そしてその認知がはっきりすればするほど「意識が強い」という表現になっていきます。
背骨への意識は
自らの背骨という存在に
「感じようとすること」「背骨という存在」「感じているという実感」この3つがそろった時「背骨への意識」が成り立ちます。
もちろん、「感じようとすること」だけでも意識が働くことには変わりないのですが、対象との繋がりがあって、意識が明確になるのです。
くらい道をあるいている時、「懐中電灯で周りを照らす」ことだけが意識することでしょうか? 見たい道が照らされていること、その道を自分は見て歩みを進めていることで、「今をはっきりさせる」ことができるのです。
対象との明確な一体感があって「意識明瞭」となるのですね。これが「覚醒」となります。
目覚めている
仏陀という言葉を聞いたことがありますか?
これは、お釈迦様だけについたものではなく、あらゆる方が「仏陀」になっているのですが知ってますか?
ちょっとウェキペディア先生
梵: Buddha(ブッダ)は、サンスクリット語の「知る」「目覚める」を意味する動詞ブドゥ(budh)の過去分詞形で、「目覚めた者」や「真理、本質、実相を悟った人」、「覚者」・「智者」と訳す。「正覚者」のことであり[3]、聖人・賢者をブッダと呼ぶようになった。
仏陀はインドの古い言葉であり、「目覚めた人」という意味です。
ですので、深い悟りを得たり、真理が明快に理解できたときの、「深ーい眠りから、がばっと目覚めた」ような状態が仏陀であり、それを目覚めと表現されたのです。
人間とは何か、生きているとは何か、真理とは何かと哲学し、実践し、いつの日かその答えとなる「智慧」にたどりつき、明確にその対象と一体になったときに「目覚めた人」すなわち「覚者」「仏陀」となるのです。
しかし、今、この瞬間の私たちが、真理とは、生とは、死とはと徹底的な思考や実践(修行)の上で悟りを開くということが実生活に必要でしょうか?
もちろん興味深いことではあると思うんです。
でもその悟りが無ければ「生きていけない?」とは言い難いようにも思うのです。
では、「ぼんやり寝ていたい」わけでもないですね。
ヨガでは「目覚めている」ことを大切にしています。
自分の懐中電灯をもつことです。
あ、ランプでも、ろうそくでもいいすよ。それが、自分の観たい対象へむけられて、照らし出されるようにする道具となるのです。
正しく照らし出されるために、着色のついているランプでないほうがいいですね。できるだけクリアに、ありのままを照らすもの。
そして、その対象を認識しようと努めましょう。
つまりは、何を観ようとして、それについて努力し、どれほど明確に理解できるかを練習していくのです。
自分の姿勢
自らの呼吸
自らの内臓
自らの心拍
自分の考え方
自然の運航
そういった、対象は様々です
さてヨガの意識
いろいろ書いてはみましたが
自分の先を照らす力が意識かな
その対象が身近なものでも
深遠なものでも
それは、それぞれが自由にすればいいのです。
ただ、ぼんやりすごさないこと
明確に「今、私が意識しているのは?」をはっきりとさせてみること。
それが、「意識という自己内にある作用のコントロール」になり、意識と繋がっているというヨガになるんではないかなと。
何かをみて、何かを想う。
その、見ていること、思うこと、それぞれにその瞬間「意識」つまり「気づきを」向けていることを実感して過ごしてみて下さい。
ありきたりですが
「今」が覚めている
という状態がヨガの練習になるように思えるのですね。
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