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ヨガは運動?

昨日はヨガの意味について思うことを綴ってみました。

今日は、ヨガってなに?

として、運動のことを綴ってみます。

運動と体育について

日本では、幼少より学校に「体育」と称して、運動を生活の中に取り入れるよう教育されてきました。

私の両親も、ヨガの指導を始める前は、中学と高校の体育の教員でしたので、私も幼いころから「運動会でテンションのあがる、体育大好きな子供」でした。

クラス対抗リレーはアンカーでないと興味を失う始末。

自己顕示欲の塊のような子供でした。

運動はそれなりに何でもこなすタイプの活発な少年。(野球、水泳以外)

マット運動、跳び箱は大の得意で、短距離でしたらあまり負ける気がしませんでした。ただ、タイムは測っても平凡で、横の人に負けないという感じで駆けっこで負けない子供でした。長距離は、途中で飽きてくるし、他のことやりたくなるので好きではなかったなぁ。たいてい冬で寒かったし。

プールは、常に「寒さ」と「恥ずかしさ」の闘いでした。どちらかというとプールサイドのコンクリートから離れたくなくて、唇はいつも紫色(←これがはずかしい)。クロールしたらかっこ悪いと笑われて、プールの授業は苦痛。

そんな体育という時間を幼稚園から高校卒業までどれほどの時間過ごしてきたのでしょう。。年間10か月の登校で、週2時間の体育としたら、年間に80時間の体育。そして5歳から15歳までの10年間で800時間。

この800時間で、私たちは「体育」で何を培ってきたのでしょう?

運動と体育と競技

運動:体の動かすこと。動的な訓練。身体的な発達を目指すもの。
体育:体を通じた教育。身体操作だけではなく、運動や集団行動(遊びも含め)の中で他物との距離感や関係性を理解する。また、成長過程における身体的な変化に関する知識と対処を理解する。
競技:共通のルールや方針に基づいた、身体的な活動の結果を評価することであり、その結果を他者と競う場合に競技となる。

残念ながら、私にとって800時間の体育は、30年以上も経った今、教育的な実感を思い出せません。

しかし、運動を通した社会性などの精神的な発達や成長の実感は、体育の授業よりも、休み時間や放課後の『遊び』の中から培われたものののほうが圧倒的な影響を持っている気がしています。

そして、学校の体育はどちらかというと「競技」に近く、計測されたり、回数を競ったり、チームに分かれて争ったりしていたことの印象が強く残っています。(大好きでしたが。。)

本来の『体育』は、教育。

私の受けてきた時間は、教育的『体育』だったのかな。

ヨガと運動

私は生まれた家がヨガアシュラム(道場)でした。

大きな体育館と大広間があり、50名ほどの宿泊が可能なヨガ道場でした。

物ごごろついたころから、毎週ヨガに参加させられて育ちました。(正直楽しくはありませんでした。遊びたい盛りでしたから)

そこでは、大人も子供も一緒くたに、アサナをしたり、笑ったり、食事をとったり、走ったり、話しをしたり聞いたりという時間を過ごしてきました。

大人の体を子供が支えることも、大人と同じことを子供も実践することも多々ありました。

その中で、「うまくなる」ことを求められることはあまりなかったように思います。

自分でどこまでできるのか、どこまでやりたいのか、自分にできることを他人に強要せず、見守り応援するという、『自分の軸』を持ちながら運動をしていました。

道場では、マラソン、掃除、体操(アサナ)、あいさつ、休憩、移動、排せつ、食事、整理、感想文作成、発表などすべてが運動であり、すべての行為一つに繋がっていると教えられ、寸分の時間的切れ目なく、自分を『意識』した時間になっていきます。

要するに、自分に影響を与えるものすべてに意識を払うということを、自然と教え込まれる感じです。

体操という時間はもちろんありますし、現代でもヨガのクラスで一般的に行われている、チャクラアサナやトリコナアサナやブジャンガアサナなども取り組んでいました。

しかしその体操(アサナ)を上達するのではなく、その体操を取り組むことで、自分の体を「意識」することや「知る」ことを求められました。

自分のことを知るきっかけ

ヨガは心の制御といわれます。

心とはなんだろう?

心を掴めなければ、コントロールもできません。

心は見えますか?

心は見えないものですか?

心はいろいろな形になり、私たちに教えてくれています。

その代表的な心が、「体」です。

この身体は、心の現れそのものです。

生まれてから、心の影響をずーっと受け続け、今、こうした身体でいるわけです。

心の現れそのものが、身体なのです。

この身体に、心を知る手がかりがたくさんあるのです。

快や不快

いつだって身体は、不快を嫌い、快適を求めています。

それは、身体を通した、心の反応です。

そして、そこには 「癖」という習慣性が見えてくるのです。

身体の癖は心の癖

ヨガの体操は、運動という行為を通じて、自らの心をつかもうとする取り組みであるとも言えるのです。

学校で広まってほしい『体育』

ヨガを教育現場に取り入れてほしいと願う、ヨガ愛好家は大勢います。

キッズヨガの先生たちは強く願っているでしょう。

しかし、それはなかなか難しいことですね。

ヨガをいきなり学校の授業にいれるにはよほどの現場の理解が必要です。

ですので、まずは学校で実践されている『体育』の取り組み方を、「ヨガ的」にしていってほしいと願っています。

それは、運動や身体操作を通じて、「自分のことを知る」というメッセージを含めてほしいということです。

いろいろな身体的な訓練があっていいのですが、そこには「自分の心は今どう感じているか」という問いかけのある場にしてほしいなと願っています。

そうすることが、今求められている「多様性」を尊重することにもつながるのではと思っているのですがどうでしょう?

結局のところヨガは運動?

どう思いますか?

ヨガは運動でしょうか?競技でしょうか?体育でしょうか?

本来なら、ヨガの体操は「体育」であってほしいのです。

身体を通じた教育であり、自らの心を知るきっかけとなってほしいのです。

今、あなたが取り組んでいるヨガは、「体育」になっていますか?


そんなことも少し想ってみてください。


体育的なヨガの活動の場として

ヨガアシュラムの建設を夢見ています。ご支援お待ちしております。





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