ヨガの目的
昨日はヨガと運動について思うところを綴りました。
さて、ヨガは誰のための、何を目的としたものなのでしょう?
今日までに、ヨガ教室を含む「ヨガ空間」へ足を運んだことのある方はそこに何を目指したのでしょう?
また、私も含めたヨガを伝える役割を担っている人たちは、誰の、何のニーズを満たそうとしているのでしょう。
ヨガに目的はあるか?
What is the purpose of yoga?
目的、意義とも訳されますが、決意や決心という意味もあるようです。
目的には、達成した状態が伴うように思いますがどうでしょう?
ヨガを取り組んだうえで満たされるであろう今現在の「未充足」なもの。
誰もが抱える、将来の不安や、現在の諸問題。
一言で表すと、「不快」「苦しみ」の除去。
そして、その払拭。
その対処法の知恵と技術の習得。
多くの人のヨガへの目的は、その問題の重大さの程度はあれど、
「苦とその対処」ではないでしょうか?
そして、苦の軽減というニーズを満たすものがヨガ。
しかし、満たそうとすればするほど、ヨガの教えである「サントーシャ(知足)」から遠のくようにも感じるのだけれど、どう思うでしょう。
目的の無い時間
毎日、時間と体力を生活の糧の対価として代謝し(これを仕事と呼んでいる)、生産活動をしているのが、一般的な私たちの生活ではないでしょうか?
生産は、生み出すものと、必要な原料(エネルギー)の効率を最大限に高めようとするもの。
それそのものは、決して悪いものではなく、環境問題一つとっても、大切な概念ですね。少ないエネルギーで最高の生産量を獲得できればそれは良いことと私も思います。
しかし、この生産という活動には、目標や過不足という指標が付いてまわります。
この目標に未達成である場合には、「苦」である悩み事にエネルギーが費やされることになります。悩みにエネルギーが注がれるのですよ。
その悩みを原動力として新しい技術が生まれることもあります。
逆に、その悩みに個人や集団の心身が「日々の生活や寝るだけでは回復しない」状態に陥る事だってあるのです。
そんな私たち、YOGAの時間に満たされているものって何だと思いますか?
私は、「非生産」な時間とのふれあいだと思うのです。
非生産が生むもの
何もしないこと
これほど難しいことはないと思います。
「明日から仕事しなくていいよ。」
急に言われたら、たぶん不安?ラッキー?
でも何で?ってその背景を知りたくなりますよね。
当たり前です。だって
生産しないでも生きてていいよって、今まで教えれられて来なかったのですから、不安なのです。
産み出さないことへの不安。
これは、生きていることを肯定する条件が、生産的なものに根付いているからだと思います。
しかし、人は、生きている事がまず大切だと思うのです。
人の生に「効率」が必要でしょうか?
生きているということが最高のバランスの取れた現象であり神秘的な活動だという感動を感じないのでしょうか?
「生きている」
と自分に伝えてみて下さい。
「もっと効率よく、もっとうまく生きてごらん」と自分に言われるよりも、
「あなたはもう、すでに、今、生きているよ」と声をかけてみた場合に、
どちらが安心するのでしょうか?
ヨガの時間に感じることは、
一番にその時間すべてが「非生産的」であるということです。
その非生産という非日常が、自らの心を穏やかに安定させるのではないでしょうか?
ヨガへの力みを取ろう
ヨガに目的はあるか?無いか?
答えは人それぞれでいいのではないでしょうか?
しかし、私は、「目的」をもたずに、取り組めればいいと思うんです。
そのために、ヨガということを意識しない。あるいは、ヨガという時間を区切らないようにしたいのです。
呼吸を時間で区切らないように、
ヨガを時間で区切らないのです。
なぜヨガをするの?
多くの生産的な方はそう問いかけます。
でも私は、曖昧に答えます。
答えられないのです。
なぜなら、何をヨガとするかを決めていない、あるいは決められないから。
目的をはっきりさせないのです。
起きること、座ること、食べること、体操すること、座禅すること、執筆すること、散歩すること、会話すること、排せつすること、入浴すること、洗濯すること、掃除することあらゆる生活の活動のすべてがヨガであり、「生きている」ことへの実感となり、心の安定につながるものになるからです。
ヨガを生産的なものとしてとらえず、生活にただ流れているものと捉えてみませんか?
ヨガをするこへの力みをとってみませんか?