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【短編】私は地獄が恐ろしい

まだ小学校に上がる前のこと。

母に連れられて「地獄」の展覧会を観に行った。

どんな経緯で観に行くことになったのか、そこでどんな展示を観たのかは覚えていない。

残っているのは、その帰り道。

電車に揺られながら、地獄というものへの恐怖に打ちのめされている感覚だけ。

そこには母もいたはずだったが、私はひとりぼっちだった。

地獄は怖かった。

体を切り刻まれ
血だらけになり

食べ物はなく
永遠に餓える

母は私が悪さをすると、低い声でこう言った。

「そんなことをしてるとね、死んだ後に、くらぁくて、さむくて、怖いところに、ずっとひとりでいなくちゃいけなくなるんだよ。

ママもみんなも誰もいなくて、ずっとひとりで、さむくて、泣いても、助けてって言っても、だれも助けてくれない。

永遠にだれにも会えない。

そんなところに、ずっといなきゃいけなくなるんだからね」

地獄は怖かった。

うっかり足を踏み外して、暗い穴の底に落ちたが最後。

二度と這い上がることはできない。

一度のミスも命取りだ。

だから私は、細心の注意を払って、生きなくてはいけなかった。

地獄は怖かった。



わがままを言うこと
自分勝手にふるまうこと

嘘をつくこと
ずるいことをすること

隠しごとをしたり
人を傷つけたりすること

清く正しく美しくない行いは、子供であっても許されなかった。
(子供だったから許されなかったのかもしれないが)

なぜ親の意見に従えないのか
なぜ嘘をつくに至ったのか
なぜ他者を攻撃しなくてはいけなかったのか

品行方正ではない行動の奥にある、本当の気持ちの存在に気づける大人はいなかった。

その行いがいかに間違っているか、こんこんと説き伏せられた後、決まって待っていたのは、母のあの言葉だった。

地獄は怖い。

その恐怖をしかと心に植え付けた私にとって、その威力は絶大だった。

「悪いことをしたら地獄に落ちる」

そう思えば、ありとあらゆる欲望を反省し、後悔することができた。

しかし残念ながら、鉄砲玉のようにすぐに飛び出していく性分は簡単に抑えられるものでもなく、地獄について思い出すのは、いつもことが起こってしまった後。

そして結局は、母からまたあの恐ろしい話を聞かなければならない羽目になっていたのだった。

私は、母や父のようには生きられなかった。

決められたことを決められた通りにやることは苦手だ。

建前でできている世界も嫌い。

本当は、成果や結果や評価にだって縛られていたくはない。

でも、それらがダメだと言うつもりなんて全然ない。

母のことも、父のことも心から愛しているし、大事に思っている。

ただ、彼らが大切にしてきた生き方というものが、私には合っていなかったということだけなのだ。

ただ、それだけ。

なにも、わざわざ地獄を見せつける必要なんてなかったんだよ。

品行方正に反する行いをして、母に諭されるとき、思い出すのは、あの日の帰り道の私だ。

地獄の衝撃と恐怖に脅え、ひとりぼっちだった私。

怖いと泣くこともできず、もう見たくないと母にすがりつくこともできず、ただただその恐怖を一人で受け止めなければいけなかった、小さな私。

どんなに恐ろしかったことだろう。

「お前も、ああなるよ」

それは直接の母の言葉ではなかったが、地獄を恐ろしいと感じる気持ちに寄り添ってもらえなかったこと。

そもそも「悪いことをしたらこうなるんだよ」と、伝えるために私を連れだしたこと。

それは一つひとつの独立した出来事ではなく、すべてが数珠つなぎのように連なって、今も私を恐怖に縛り付けている。

母よ、効果はバツグンだ。

私は36歳になった今でも、地獄が恐ろしい。

あの、暗くて、寒くて、一人ぼっちで、助けもない、だれもいない。

そんな暗い暗い穴に落ちてしまうのが、恐ろしくてたまらない。

母や父が望まなかった道。彼らの言う「正しさ」からは、きっと大きく外れる道。

そんな自分の道を進もうと思うたび、恐怖で足がすくむのを感じる。

そちらが私の望む道、私にとっての光だと頭では理解していも、体がどうしても言うことを聞かない。

そりゃそうだろう。

だってその先に待っているのは、もしかしたら地獄なのかもしれないのだから。

続いていると思っていた光の道は、実は地獄へとつながる暗闇が口を開いて待っているかもしれない。

立ち止まるには、十分な理由。

あぁ、私は地獄が恐ろしいのだ。

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