(浅井茂利著作集)経済と経済政策の見方
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1594(2015年9月25日)掲載
金属労協政策企画局次長 浅井茂利
<情報のご利用に際してのご注意>
本稿の内容および執筆者の肩書は、原稿執筆当時のものです。
当会(一般社団法人成果配分調査会)は、提供する情報の内容に関し万全を期しておりますが、その正確性、完全性を保証するものではありません。この情報を利用したことにより利用者が被ったいかなる損害についても、当会および執筆者は一切責任を負いかねます。
ブッシュ(子)政権において、大統領経済諮問委員長を務めたグレゴリー・マンキューの経済学の教科書は、世界で一番読まれているそうですが、その中に、「エセ経済学者たち」と題するパラグラフがあります。「注目を浴びたり自己利益を図りたいためにおかしな理論を使う山師」や、「自分の理論が正しいと信じている変人」のような「流行エコノミスト」の人気が高いけれど、政治家がそうした「エセ経済学者のアドバイスを採用しても、予想したような望ましい成果はほとんど得られない」と指摘しています。
ケインズも『雇用・利子および貨幣の一般理論』において、「どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。権力の座にあって天声を聞くと称する狂人(ママ)たちも、数年前のある三文学者から彼らの気違い(ママ)じみた考えを引き出しているのである」と書いています。
経済学には、1776年にアダム・スミスが『国富論』を発表して以来、いやそれよりずっと以前から、営々と積み重ねてきた経験と調査と分析と論考があり、それによって、過去から現在に至る経済的な現象の多くを説明することができ、また、解決すべき課題に対して処方箋を示すことができます。しかしながら、新聞や経済誌を見ると、そうしたスタンダードな経済学の考え方とはかけ離れた言説が、むしろ多く見受けられるようです。
ちょっと考えれば当然なのですが、流行エコノミストの使命は、日本経済の持続的な成長を促したり、産業の健全な発展や国民生活の向上を図ることではなく、
*自分の論文や著書を売る。
*マスコミで顔を売る。
*所属する企業の利益を増やす。
ことにあるわけです。そうすると、戦後、スタンダードな教科書だったポール・サムエルソンの『経済学』の中で、「居並ぶ経済学者がうなずきあっていたら、あなたは多分、かえって目を離してしまうだろう」と書かれているように、流行エコノミストは、スタンダードな考え方ではなく、目立つこと、目新しいことを主張しなくではならない立場にあるわけです。
また、たとえば金融緩和によって利益が損なわれる金融機関に勤務するエコノミストは、当然、金融緩和を批判するということになります。
錚々たる経済学者でも、油断はできません。自分の専門分野に対するマスコミからの注文が少なければ、金融のような注文の多い分野に進出し、的外れな意見を言ってしまうかもしれません。政治評論家や外交評論家は、政局や外交交渉の分析には長けていると思いますが、経済政策や貿易協定について口を出すと、とんちんかんになりがちです。官僚も、特定産業のみを所管する府省は、その産業が隆盛になると仕事がなくなってしまうという、利益相反が生じています。
政治家も、労働組合も、そして国民全体が、経済学者やエコノミストの提案する経済政策に対して、「消費者」の立場にあるわけです。筆者は、スタンダードな経済学による知見が100%正しい、と断言するつもりはまったくありませんし、スタグフレーション(不況下の物価高)のような、処方が正反対のふたつの現象が同時に発生した場合には、スタンダードな経済学でも、相当に困難な舵取りを迫られます。しかしながら、そうであっても、経済政策の消費者であるわれわれとしては、経済学者やエコノミストの提案について、スタンダードな考え方ではどうなるのか、スタンダードな考え方とはどう違うのかを常に意識しながら、吟味していくことが不可欠だと思います。
一般に広く受け入れられている考え方と、経済学のスタンダードとが異なるように思われる問題としては、次のようなものがあります。
リーマンショックと世界大恐慌
2008年のリーマンショックの際には、1929年以降の世界大恐慌に匹敵する打撃と混乱が予想されていましたが、打撃は大きかったものの、比較的短期間で混乱は収束したと言えるでしょう。これは、ミルトン・フリードマン、アンナ・シュウォーツ、ベン・バーナンキといった人たちによる、大恐慌研究の成果です。
世界大恐慌については、資本主義、市場経済が本質的に不安定な体制であり、その行き詰まりがもたらしたもの、と受け止める見方が多いように思われます。
しかしながらフリードマンなどは、世界大恐慌が、アメリカの中央銀行であるFRBが、バブルが崩壊する中で金融引き締めをしてしまったことが原因であることを明らかにしています。
リーマンショックの際には、大恐慌研究の第一人者であるバーナンキがFRBの議長でしたが、迅速に、そして膨大な金融緩和を行ったため、危機の発祥地であるにもかかわらず、アメリカ経済は比較的早く回復しました。逆に日本は、金融機関がリーマンショックの原因となったサブプライムローン関連の金融商品をあまり保有しておらず、「蚊に刺された程度」の影響だったはずなのに、小規模な金融緩和しか行われなかったため、米欧を上回る打撃となりました。ユーロ圏では、当初は強力な金融緩和を行ったのですが、第1次世界大戦後のハイパーインフレの経験が染みついているドイツの影響により、早めに金融引き締めに転じてしまい、景気回復が遅れただけでなく、ギリシャなど南欧諸国の債務危機を招いてしまいました。
ちなみにドイツについては、第1次大戦後のハイパーインフレがナチスの台頭を招いた、と言われる場合が多いですが、原田泰氏(日銀審議委員)によれば、敗戦による巨額の賠償金支払いのためには、ハイパーインフレは避けられなかったし、また1兆倍のインフレでも、給与はほぼインフレに応じて上昇していたが、その後のデフレで失業者が増加し、ナチスの台頭をもたらした、と指摘しています。(『反資本主義の亡霊』2015年、日経プレミアシリーズ)
成長戦略
国の成長戦略は本来、
①潜在成長力を発揮させるための政策
②潜在成長力を高めるための政策
③成長成果を適正に配分し、経済の好循環を促す政策
が重要なのですが、どうも②ばかりが、注目されているようです。(①は忘れられがちですし、③はあたかも②と相反するもののように考えられがちです。
しかしながら、①がなければ②の努力は徒労に終わります。デフレの時代、成長力の強化を主張する人がいましたが、そもそも成長力が発揮されていないのですから、そうした政策では成長もしないし、デフレも解消しません。③は②の主要な要素であるとともに、③が不十分なまま成長を続けようとすれば、①を際限なく追加する必要があります。
前述のように、わが国では、潜在成長力を発揮させるために必要な資金供給が行われていなかったため、超円高とデフレが発生し、ものづくり産業の国内生産拠点と国内雇用が失われる状況となっていました。雇用環境が悪化すると、賃金水準が低下するので、需要が供給力を下回るという悪循環が長く続きました。
2013年以降は、量的・質的金融緩和政策により、円高是正・デフレ脱却が図られてきており、潜在成長力を発揮できるような環境が整ってきています。とはいえ、③が十分ではないため、①の量的・質的金融緩和が大規模なものとならざるをえません。政府や日銀が賃上げの必要性を強調するのも、そうした事情によるものと思われます。
②の政策については、安倍内閣の「日本再興戦略」では、「産業の新陳代謝の促進」をその柱としています。産業・企業における構造転換は、つねに行われるべきものですが、企業が新分野を開拓する際、新たに従業員を雇用し、それまで働いていた従業員は解雇して再教育を行い、再就職を図るというのが、「日本再興戦略」の描く典型的な姿です。従業員のリストラを人材会社に依頼すると企業が助成金を受け取れる「労働移動支援助成金」は、2013年度当初予算では1億8,600万円でしたが、日本再興戦略に基づき、2015年度予算では、実に349億4,400万円が計上されています。労働者派遣法の見直しや外国人技能実習制度の拡大も、同じ観点に立った政策だと言えるでしょう。
労働移動支援助成金の2014年度実績が5億9,200万円、執行率2%、支給先上位10社で執行額の40%を占める、といういびつな状態からすれば、従業員の入れ替えで新陳代謝を図るという政策が、机上の空論であることは明らかです。従業員を入れ替える企業と、従業員に安定雇用を提供し、従業員の必死の努力と成長で事業の新陳代謝を進める企業とを比べれば、どちらが競争力を有するか、どちらが持続可能性を有するかは、明白です。
人の入れ換えを前提とすれば、企業に対する従業員の立場(交渉上の地歩)も弱体化しますので、③の勤労者に対する成長成果の適正な配分も困難になってしまいます。
結局、②の政策については、民間企業の経営方針を左右するようなものではなく、人材の育成と産業インフラの整備、自由貿易体制の強化、そして財・サービス市場、労働市場、金融市場における市場参加者の対等性確保というような分野に自ずと絞られるべきです。東京大学の藤本隆宏教授は、従業員を「食わす」ためにジタバタ努力することが、イノベーションの原動力であり、企業が自由にジタバタできるようにすることが、政府の役割なのだと指摘しています。
現場を見ていない流行エコノミストの思い込みを鵜呑みにし、民間企業をミスリードするような施策は、絶対に避けなくてはいけません。
自由貿易
TPP交渉に関して、安倍総理は「交渉力を駆使し、我が国として守るべきものは守り、攻めるものは攻めていきます」と表明しています。
「守るべきもの」とは、いったい何なのでしょうか。特定の利害関係者に配慮しなければならない政治家の立場からすれば、理解できないではありませんが、スタンダードな経済学の考え方からすれば、珍妙としか言いようがありません。
農業こそ「守るべきもの」である、と考える人がいるかもしれません。もちろん、日本の農業は守らなくてはなりませんが、守るのは農業従事者の努力と適切な農政によってであり、外交交渉で関税や非関税障壁を維持することによって守られるわけではありません。
TPPのような自由貿易協定により、輸出先の関税が撤廃されれば、金属産業などの輸出産業にとって、利益になることは誰にでもわかります。しかしながら、もっと大きな効果は、自国の輸入が自由化されることにより、国内の消費者の選択肢が増えるとともに、競争が活発化することで、それまで輸入品から守られてきた産業が強化される、ということにあります。
アダム・スミスは、貿易黒字を稼いで国力の増強を図る「重商主義」に強く反対しています。それは輸出が悪者なのではなく、貿易黒字を稼ごうとして、保護主義が強化され、かえって国内の経済力を損なってしまうためです。
関税や非関税障壁は、国内の消費者から特定産業に対する所得移転にほかなりません。それによって、その産業が国際競争力を持つまでに強化されるのであれば、まだ我慢できます。しかしながら、輸入品との競争が行われない産業は、保護をすればするほど弱体化してしまうと考えるのが自然です。消費者の選択肢が損なわれ、産業の弱体化を招くという両面で、結局、国全体の利益が損なわれてしまいます。自分の子どもの教育に置き換えてみれば自ずと明らかな事実だと思いますが、いかがでしょうか。