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中小企業における物価上昇を上回るベースアップの実現に向けて(第2版)

2025年1月31日
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利

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日本経済における中小企業の位置づけ

 日本で働く勤労者には、
*日本の経済力に相応しい生活水準
*日本経済の成長に相応しい生活水準の向上
を享受する権利があります。
 従って、個別企業における賃金水準やベースアップといえども、
*マクロ経済の状況に即して形成される世間相場の幅の中で、
*産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して決定されていく。
ということでなければなりません。

 大手企業のベースアップ回答やその推測記事がマスコミで報道されることにより、ベースアップの「相場観」が形成されていることは否定できません。しかしながら、社会的に影響力の大きい大手企業、とくに主要産業のトップグループに位置するような企業のベースアップは、業界全体、産業界全体、国民全体の反応や意向を無視して決定できません。たとえ企業自身が意識していなくとも、「マクロ経済の実情に応じた適切なベースアップの世間相場」のあり方を探りつつ、産業の状況や個別企業の事情を一定程度反映して決定しているわけです。

 業界全体、産業界全体、国民全体の反応や意向に縛られることがいやなので、ベースアップを公表しない企業もありますが、そのことこそ、まさに大手企業が自社の支払い能力や都合でベースアップを決定することが難しい証拠です。また、ベースアップを公表しない企業でも、世間相場を無視したベースアップを行うことはできないはずです。

 世間相場がもし大手企業の支払い能力や都合で形成されているのなら、多くの中小企業はこれについていくことができません。しかしながら、マクロ経済の実情に応じて、業界全体、産業界全体、国民全体の反応や意向を考慮しながら形成されているのであれば、中小企業は世間相場についていけない、という言い訳は成り立ちません。日本で産み出される付加価値の半分は、資本金1億円未満の企業によるものです。マクロ経済の状況には、大手企業だけでなく中小企業の経済活動も反映されています。中小企業においても、マクロ経済の状況に応じて形成される世間相場の幅の中で、ベースアップを行っていく必要があります。(図表1)

中小企業における賃上げおよび賃金水準の状況

 連合の集計によれば、2024年には全体として物価上昇を上回るベースアップを獲得していますが、組合員99人以下の組合では、物価上昇をカバーするベースアップが確保できていません。
 2023年、2024年の2年間で見ると、大手を含めて、2022年度、2023年度の2年間の物価上昇をカバーするベースアップが確保できていませんが、とくに中小組合での不十分さが著しくなっています(図表2)。2023年の交渉結果は、労使ともに時代の転換への迅速な対応ができていなかったことによるものであり、その分を追加で補正することは、交渉の「蒸し返し」や信義則違反にはあたりません。

 厚生労働省「毎月勤労統計」によれば、事業所規模5人以上の集計では、2024年4月以降も所定内給与の実質賃金割れが続いているものの、製造業、卸売業・小売業の事業所規模30人以上の集計では、所定内給与が実質でプラス傾向となっています(図表3)。こうしたことから、以下の点に留意する必要があります。
*毎勤統計の結果から、「実質賃金が維持できていないのが一般的な傾向である」と判断することは誤りである。
*2025年春闘では、規模29人以下の事業所における物価上昇を上回るベースアップの実現が焦点である。

 35歳直入者の所定内給与の賃金水準格差を見ると、高卒では、規模の小さな企業において、「規模内」格差が大きい状況にあることから、大手水準を踏まえた企業規模間格差是正をめざす中で、とくに賃金水準の低い企業では、まずは同規模企業の水準に追いついていく必要があります。(図表4)

 帝国データバンクが実施した「企業における人材確保・人手不足の要因に関するアンケート(2023年5月)」によれば、「人手が不足していない」企業のうち、51.7%の企業がその要因として「賃金や賞与の引き上げ」を挙げており(複数回答)、要因の中で最も高い比率を占めています。ベースアップがただちに人手不足の解消に結び付くかどうかは、さまざまな状況に左右されるとしても、少なくともベースアップによって適切な賃金水準を確保しなければ、人手不足が解消しないのは明らかです。
訂正とお詫び:2024年10月30日版では、引用資料名が間違っておりました。お詫びして訂正させていただきます。

中小企業における支払い能力

 一般論として、中小企業では、賃金のいわゆる「支払い能力」が大手企業に比べ劣っているとみなされています。しかしながら、それは支払い能力が「ない」ことを意味するものではありません。たとえば、財務省の「法人企業統計」において売上高経常利益率の長期的な推移を見てみると、中小企業の水準は、1970年代前半の高度成長期を大きく上回っている大手企業に比べれば低くなっているものの、高度成長期並みの水準に達しています。(図表5)

 2024年12月時点の日銀「短観」によれば、2024年度の業績見通しは全体として増収減益の状況となっていますが、上方修正が続いています。中小企業も同様ですが、減益率の見通しは規模計に比べて中小企業のほうが小さくなっています。(図表6)

 帝国データバンクが2024年3月に発表した「企業の『潜在賃上げ力』分析調査(2024年度)」では、約6万社のデータから、当期純利益の3割を人件費に投下した場合、全体で6.31%、大手企業で18.93%、中小企業で5.90%の人件費の増加に充てることができると分析しています。なおこの試算は、「人件費の増加分」を計算しているものなので、内転原資を含まないベースアップ率に相当するものです。(ただし、定年退職者・再雇用終了者がおらず、内転原資が発生しない企業では、定昇込み賃上げ率が人件費の増加分に相当することになる)

 また、東京商工リサーチが2024年8月に実施した「2024年『最低賃金引き上げに関するアンケート』調査」によれば、中小企業の64.2%で、2025年度においても50円以上の法定最低賃金引き上げが許容できると回答しており、27.2%が100円以上、10.6%が200円以上と回答しています。これは、そもそも現在の時給が法定最低賃金を上回っているために「許容できる」という側面もあるものの、東京商工リサーチでは、「アフターコロナの業績回復に加え、物価高を反映した価格転嫁も徐々に進んでいる。このため、人件費負担が増す企業がある一方で、賃上げ余力が生じている企業も出ている」と分析しています。なお、10円刻みの幅では、「50円以上60円未満」の回答が最も多く(32.2%)なっていますが、これは、2024年の地域別最低賃金引き上げの目安が50円となっていることによるものと見られ、この点からも、それ以上の引き上げが許容できる状況にあることが推測されます。

賃金水準の企業規模間格差是正の方策

①賃金表の確立
 厚生労働省の「就労条件総合調査」によれば、「賃金表がある」企業は30~99人の企業で56.4%となっていますが、この調査における「賃金表」は、「基本給額、あるいは昇給額を明確に定めているもの」であり、「昇給額」だけが記載されているものも含まれています(図表7)賃金水準の明記された賃金表を確立することなくして、企業規模間格差是正は困難です。

 厚生労働省の「令和6年賃金引上げ等の実態に関する調査」によれば、賃金改定の有無を決定している企業の86.3%で「定昇制度あり」と回答しており、多くの企業で、定期昇給が制度上、あるいは事実上の制度として確立されていることがわかります。100~299人規模の企業でも85.3%となっており、比較的企業規模間格差が少ない状況と言えます。定昇とは、
*従業員のそれぞれの年齢における職務遂行能力の向上
*従業員のそれぞれの年齢における労働力の再生産費用の増加
を賃金に反映させるものです。企業の規模、新旧を問わず、また職能給中心、職務給中心の如何を問わず、これを組み込んで賃金表を作成し、実施していく必要があります。

②交渉における産別指導と産別内における情報共有
 労使対等の交渉によって賃金・労働諸条件を決定していくためには、労働組合の組織化が絶対条件ですが、
*経営側に経営権があり、
*組合員はもとより、組合執行部も、通常の業務では経営側の人事権、指揮命令権に従っており、
*とくに中小企業では人間関係が濃密なため、人事権、指揮命令権が労使交渉に影響することが避けられないこと
からすれば、企業別組合(単組)が労使対等の交渉を行っていくためには、組織化だけでは不十分であることは否定できません。

 労働市場において労使対等の交渉を行っていくためには、
*労働法制
*労働組合の組織化
*産別労働運動
*争議権を行使できる意思と力
という4要素が不可欠であり、とりわけ単組にとっては産別労働運動、具体的には、
*交渉における産別指導(要求内容、交渉日程、交渉対策)
*産別内の情報共有(経済情勢や産業動向、各社における賃金・労働諸条件の制度や実態、交渉状況など)
が重要です。

 これは、
*労働組合の行動が産別指導に従ったものであるということが、経営側の人事権、指揮命令権の労使交渉への影響を緩和することが期待できる。
*連合や大産別の方針に基づいて産別の意思を結集した要求内容、交渉日程、交渉対策であることから、妥当性・正当性・納得性が高まり、その「重み」が増して、交渉力強化につながる。
*産業内の労働組合が、経済情勢や産業動向、産別内の他企業の賃金・労働諸条件の制度や実態、交渉状況といった情報を共有化することで、経営側への圧力を高めることができる。
*産別で検討された方向性を踏まえて賃金・処遇制度を整備し、賃金水準の記載された賃金表を作成することができれば、賃金・処遇の透明性・公平性・納得性が高まり、会社に対する、あるいは従業員相互の不信感を払拭し、エンゲージメントの向上に寄与する。
などによるものです。

③経営情報の労使共有化
 賃金水準の企業規模間格差是正実現のための第三の要件は、労使による経営情報の共有化です。労使交渉・協議の場において、企業業績の状況に関しデータに基づいて検討していくことが不可欠です。
 すべての株式会社には、官報、日刊紙、電子媒体のいずれかで決算公告を行うことが義務付けられています。しかしながら、東京商工リサーチの調査(2023年6月発表)によれば、
*株式会社259万5,362社のうち、217万9,325社が公告方法を官報としているにも関わらず、
*官報で公告を行った企業は4万214社(1.8%)に止まっている。
とのことであり、
*罰則規定(100万円以下の過料)の適用がほぼないこと
*コンプライアンス意識の低さ
*公告料負担
などが原因として指摘されています。このため、
*国の政策として、電子公告が活用されるよう誘導する。
*大手企業は、決算公告を行っていない取引先に対し、法令遵守を求める。
ことなどにより、経営情報の透明化を進めていく必要があります。

④バリューチェーン内における付加価値の適正配分
 中小企業庁『2023年版中小企業白書』の分析によれば、大手製造業では、実質労働生産性の向上に見合った名目付加価値の増加が見られるのに対し、中小製造業では、実質労働生産性の向上が価格引き下げに用いられ、このため名目付加価値がほとんど増加していない状況にあります(図表8)。適正な価格設定によって、実質生産性向上が中小企業の付加価値の拡大をもたらし、人件費や投資に適切に配分されなければなりません。ただし、適正な価格設定ができていないからといって、賃金の世間水準、ベースアップの世間相場を守らなくてよい、ということにはなりません。

 サプライヤー企業やバイヤー企業は、2023年11月に内閣官房/公正取引委員会がとりまとめた「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」に基づき、バイヤー企業が以下の点について遵守しているかどうか、チェックしていく必要があります。

注意すべき発注企業の行動
 以下は、「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」に基づき、その内容をわかりやすく翻案したもの
<発注企業がとるべき行動>
*受注企業における労働コスト上昇の取引価格への転嫁受け入れを、経営トップが方針として決定し、書面等で社内外に示す。
*こうした方針を通じて、受注企業における労働コスト上昇は受注企業が吸収すべきという考え方を払拭する。
*調達部門から独立した、受注企業からの相談窓口などを設置する。
*受注企業における労働コストの価格転嫁について、年1回もしくは半年に1回など、定期的に受注企業と協議の場を設ける。
*労働コスト上昇の価格転嫁を求められた場合は協議に応じ、価格転嫁を求められたことを理由に受注企業に対し取引停止など不利益な取り扱いをしない。
*受注企業の申し入れの巧拙にかかわらず、受注企業に寄り添って対応する。
*受注企業に労働コスト上昇の根拠を求める場合は、公表資料でよいものとする。公表資料に基づいて受注企業が提示した希望価格については、合理的な根拠があるものとして尊重し、満額を受け入れない場合には、その根拠や合理的な理由を説明する。公表資料で示された以上の価格引き上げを要請する受注企業に対し、過度な負担となる説明や資料を求めない。
*直接の取引先である受注企業が、その先の取引先との取引価格を適正化すべき立場にいることを常に意識して判断する。
<「優越的地位の濫用」または「買いたたき」にあたるおそれのある発注企業の行動>
*受注企業からの要請の有無にかかわらず、労働コスト上昇の価格転嫁について受注企業との協議を行わず取引価格を長年据え置くこと。
*実質的にスポット取引でないにもかかわらず、スポット取引と称して労働コストの価格転嫁について受注企業との協議を行わず取引価格を据え置くこと。
*受注企業からの取引価格引き上げ要請が労働コスト上昇の価格転嫁であることを理由として、受注企業との協議を行わず取引価格を据え置くこと。
*受注企業に対し、労働コスト上昇の根拠として詳細な資料や内部情報を求め、これが提出されないことを理由として、受注企業との協議を行わず取引価格を据え置くこと。
*受注企業に対し労働コストの価格転嫁に関する特定の算定式やフォーマットを示し、これに基づいて受注企業との協議を行わず低い単価を定めること。
*受注企業が取引先からの労働コストの価格転嫁要請に対応するため、発注企業に取引価格引き上げを求めた場合に、受注企業との協議を行わず取引価格を据え置くこと。

内閣官房/公正取引委員会「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」に基づき
一般社団法人成果配分調査会作成

⑤カイゼン活動
 下請事業者でカイゼン活動を推進している企業は、製造業でも2割程度に止まっているものと見られます。DX投資をより効率的・効果的に進めるためにも、製造業・非製造業を問わず本格的なカイゼン活動に取り組み、一層の実質生産性向上を図っていく必要があります。(図表9)

⑥販管費の無駄な支出の排除
 中小企業庁の「中小企業実態基本調査」において、製造業・中小企業の「人件費・地代家賃・減価償却費・租税公課を除く販管費」について見ると、企業規模が小さくなるほど、売上高に対する比率が高くなる傾向となっており、利益率や付加価値を圧迫していると言えます。たとえば従業員6~20人の企業で、「人件費・地代家賃・減価償却費・租税公課を除く販管費」の売上高に対する比率(10.4%)を51人以上の中小企業並み(6.6%)に抑制すると、その節減額は労務費・人件費の16.3%に相当します。(図表10)

 生産性向上やバリーチェーンにおける付加価値の適正配分の実現によって中小企業の「支払い能力」を高めていくことはもちろん、販管費の無駄の徹底的な排除によってこれを確保していくことが重要です。生産性向上や付加価値の適正配分の成果が、販管費の無駄な支出に用いられることがないようにする必要もあります。また、支払い能力がなく、世間相場を踏まえたベースアップが困難な状況であれば、販管費の支出について、労使で詳細なチェックを行っていくことが必要です。

<図表>
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