労働移動の円滑化と職務給が賃上げに必要なのか
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1680(2022年11月25日)掲載
一般社団法人成果配分調査会代表理事 浅井茂利
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10月3日、岸田総理は所信表明演説の中で、「構造的な賃上げ」の実現を訴えました。
*賃上げが、高いスキルの人材を惹きつけ、企業の生産性を向上させ、更なる賃上げを生むという好循環が、機能していないという、構造的な問題がある。
*まず、官民が連携して、現下の物価上昇に見合う賃上げの実現に取り組む。
としています。
ここだけを読むと、大変けっこうなことのように思われます。政府が春闘に口を出すことについては、「官製春闘」などと揶揄されたり、労使自治への介入として批判されたりしていますが、「市場の失敗」の是正に関与するのは政府の重要な役割です。
ところが、所信表明演説のこの部分全体を見ると、なぜか、
*賃上げには労働移動の円滑化が必要。
*労働移動の円滑化には職務給への移行が必要。
と受け取られるように思われます。
労働移動そのものは、もちろん否定すべきものではありません。しかしながら、実は第2次安倍内閣においても労働移動の促進策が進められましたが、政策的に失敗した経過があります。黒田日銀の量的・質的金融緩和によって景気が回復し、人手不足となり、中長期的にも生産年齢人口が減少傾向にあるという状況の下では、企業の生き残りにとって、人材確保、人材の囲い込みこそが必須であり、労働移動の促進策の失敗は当然です。
また、仕事の内容や進め方、働き方は産業・企業、そして職種によって千差万別であり、賃金制度もまたそれに即したものとなっているはずです。大企業か中小企業かによっても、賃金制度は変わってきます。職務給への移行は政府が誘導するようなことではありません。
労働移動の円滑化を進めようとすれば、来年の骨太方針では、解雇規制の緩和が盛り込まれるかもしれませんが、「市場の失敗」ならぬ「政府の失敗」を繰り返すことにならないよう、政府はさまざまな意見に耳を傾け、慎重な判断を行っていくべきだと思います。
労働移動支援助成金の失敗
2013年の日本再興戦略では、「雇用制度改革・人材力の強化」の一番目として、「行き過ぎた雇用維持型から労働移動支援型への政策転換(失業なき労働移動の実現)」が掲げられました。
具体的には、従業員のリストラで人材会社に支援を依頼すると、リストラ企業が助成金を受け取れる「労働移動支援助成金」について、2013年度当初予算で1億8,600万円となっていたのを、雇い入れた企業への支援も新たに導入した上で、2014年度予算では301億3,300万円、2015年度予算では349億4,400万円に増大させました。
しかしながら実際の執行率は、2014年度に2%、2015年度に7%に止まり、その後、予算は減額されて2023年度の概算要求は10億200万円となっています。とりわけリストラ企業への支援は、2021年度に6社・173人・4,900万円とまったくニーズのない状況となっています。
賃上げには労働移動の円滑化が必要という考え方について
岸田総理の所信表明演説では前述のとおり、「賃上げが、高いスキルの人材を惹きつけ、企業の生産性を向上させ、更なる賃上げを生むという好循環が、機能していない」と指摘しています。まさにそのとおりだと思います。
「賃上げには生産性向上が必要」と主張する人がいますが、わが国の賃金水準がその経済力に相応しいものとなっていないことについては、広く認識が共有されていますので、まずは日本経済の成長に相応しい賃上げ、日本の経済力に相応しい賃金水準を実現することが第一で、それを「更なる賃上げ」に結び付けるという手順になります。「ニワトリが先か、卵が先か」と言われますが、卵があるなら、それを孵せばよいのです。
個別企業ごとに見れば、現状では、そうした賃上げについていけない企業もあると思います。自ずと雇用が流出し、より賃金の高い、生産性の高い企業に労働移動が行われることになると思います。あえて「労働移動の円滑化」などを掲げなくとも、賃上げが労働移動を促すことになるのですから、賃上げには労働移動が必要という考え方では、政策と効果が逆になってしまいます。
結局、「労働移動の円滑化」とは、「解雇規制の緩和」を意図しているのではないかと判断せざるをえません。「不況時に簡単にクビを切れるなら、賃上げができる」という主張であれば、ロジックとしては一応、成り立っているからです。
しかしながらわが国では、年間総賃金に占める一時金、所定外賃金の割合が大きいため、人件費はきわめて柔軟となっています。2014年以降、毎年賃上げが行われ、働き方改革によって所定外労働の削減を進めている中でも、この構図は基本的に変わっていません。
かつて、不況時に日本は賃金の柔軟性によって雇用を守り、欧米は雇用削減で対応する、ということが言われていました。欧州での解雇が日本より簡単かどうかはいちがいに判断できませんが、少なくとも日本において、賃金の柔軟性を維持したままで、その上、解雇規制まで緩和する理由はありません。繰り返しになりますが、わが国の賃金は、その経済力に相応しいものとなっていない状況にあるわけですから、賃上げの実施に際し、労働移動の円滑化、解雇規制の緩和などという前提条件を付けるのは間違いです。
ジョブ型 = 職務給
近年、マスコミなどを中心に、従来の「メンバーシップ型雇用システム」から、「ジョブ型」に転換すべきだ、という主張が目につくようになりました。「ジョブ型」の定義は必ずしも統一されていなかったのですが、岸田総理の所信表明演説によって、「日本に合った職務給」を採用する雇用システムということで整理されることになりました。「日本に合った職務給」の具体的内容に関しては、来年6月までにとりまとめられるものと思いますが、
*査定が行われ、人事考課によって昇給・降給する。
*定期昇給的な習熟昇給は、たとえ設けられたとしても大きくない。
ということになるのではないかと思います。
職務給の問題点
日本ではこれまで、職務遂行能力を基準とした職能給を基本とした賃金制度が一般的で、1990年代後半からのいわゆる成果主義の導入以降も、基本的には変わっていないものと思われます。一方、職務を基準とした職務給については、
*職種を超えた人事異動が困難で、組織が硬直的になりがちである。
*一人ひとりの仕事の範囲が縦割りになりやすく、人材を多様な業務に柔軟に活用することが難しい。
*このため、技術や市場の変化、ビジネスモデルや企業組織の変更などへの対応が難しい。
という問題点があり、一部の職種を除いて広がりを見せていません。
とりわけ今日、産業・企業は、
*DX、GXの展開
*経済安全保障の強化に向けたバリューチェーンの再構築
という、まさに100年に1度と言われる大変革に対応していかなければなりません。
また、「従業員エンゲージメント」の向上が求められていますが、従業員エンゲージメントを向上させるためには、
*企業の組織図上の指揮命令系統では説明できないチームで、
*自分の担当職務が誰かの担当職務に関わり、
*メンバー同士で各自の強みをさらに補っている
ことが必要だと言われています。
大変革への対応にも、従業員エンゲージメントの向上にも、変化に対応しにくく、縦割りの職務給が相応しい賃金制度でないことは明らかなのではないでしょうか。
なぜ職務給への移行が主張されているのか
「労働移動の円滑化には職務給への移行が必要」という考え方については、職務給であれば、社会的な賃金水準が形成しやすく、各社の賃金比較が容易になるため、労働移動との相性がよいということはあるかもしれません。しかしながら本質的な問題は、転職すると賃金水準が下がるという傾向であり、転職先において前職の経験なども考慮された適切な能力評価を行うことによって、職能給であっても労働移動が不利にならないように対応することができるはずです。
企業は、産業・企業における仕事の内容や進め方、働き方に即して、従業員の能力形成・能力発揮を促す賃金制度を採用すべきです。労働移動との相性がよいという理由で、職務給を採用するのは本末転倒だと思います。転職が一般的に行われている職種については、別建ての制度で対応すればよいだけです。
1990年代後半以降、いわゆる成果主義の名の下に大部分の中高年従業員の賃金を一定水準で留め置く、もしくは引き下げる制度が導入されてきました。経団連の『2022年版経営労働政策特別委員会報告』では、「大手企業を中心に、年功に偏重した制度から、働き手が担っている仕事や役割、貢献度を基軸とした制度へと移行が進んでいる。こうした賃金制度見直しの流れをさらに強めるとともに、賃金項目や賃金体系の検討も必要となろう」と指摘していますが、職能給から職務給への移行により、中高年層の一層の賃金抑制が図られる可能性があります。
若年層で賃金を引き上げても、中高年層の賃金を引き下げれば、わが国の賃金水準を全体として引き上げることにはなりません。消費への影響からしても、単に中高年層の消費が減少するだけでなく、若年層においても、中高年層になった時の収入に対する不安から、消費を抑制せざるを得ません。
さらに長期的には、中高年層の賃金が引き下げられると、子どもの予備校や塾などの補習教育にかける費用を賄えるかどうかの格差が拡大することになりますので、教育格差が拡大し、所得格差、資産格差の拡大をもたらし、やがて格差の固定化につながる可能性もあります。高等教育における返済不要の給付奨学金や出世払い奨学金などの拡充は大変重要な政策ですが、補習教育には対応できません。昨年10月の所信表明演説で触れられていた「格差」「中間層」という言葉が、今年の所信表明演説では1回も出てこないのが大変気になります。
職能給から職務給への移行の際の問題点としても、職能給を基本とする賃金制度で勤務してきた中堅層の従業員について、その後の賃金水準の抑制・引き下げを意図して、職務給に移行することがあってはなりません。若年層についても、若年層における賃金水準を従来並みに抑えたままで、将来の賃金水準の抑制を目的として、職務給に移行することがあってはなりません。さらに、非正社員を正社員化する場合に、賃金水準を低いまま据え置くための賃金制度として、職務給を利用してはなりません。
職務給を基本とする賃金制度を導入する場合には、新技術の開発や活用のため、国内外の高度人材の確保と活躍促進を目的とする制度として、整備を図るべきだと思います。
職務給への移行と解雇規制緩和の問題
職務給が採用されている場合、従業員の担う職務やポストが不要となった際に雇用がどうなるのか、という問題があります。
現行の制度では、当然ではありますが、職務給への移行により、企業の雇用責任が軽減されて解雇が容易になる、というわけではありません。職務やポストが不要となった従業員に対しては、企業は次の職務やポストを用意しなければなりません。もし職務給への移行で解雇が容易になるという誤解が生じているのなら、注意を促す必要があります。東京地裁の判決ではありますが、典型的な大手日本企業の雇用慣行とは異なる外資系金融機関に関しても、整理解雇の四要件という「判断枠組自体を否定すべき理由はない」との判断が示されています。(2021年12月13日、バークレイズ証券事件)
しかしながら、現行はそうであるとしても、職務給への移行が一般化すれば、解雇規制を緩和し、職務やポストが不要となった場合に従業員を解雇できるよう整理解雇の四要件を見直すべきだとの主張が強まって、制度変更が行われる危険性がありますので、十分に注意する必要があります。