(浅井茂利著作集)特定最低賃金の役割を再確認する(上)
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1605(2016年8月25日)掲載
金属労協政策企画局長 浅井茂利
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日本には、地域別最低賃金(地賃)と特定最低賃金(特定最賃)という、二つの法定最低賃金制度があります。地域別最低賃金は、都道府県ごとに決められ、すべての労働者を対象としていますが、特定最低賃金は、産業ごと(または職種ごと)・地域ごとに決められ、年齢、業務などを絞り込んだ基幹的労働者を対象としています。
わが国では、1959年に最低賃金法が制定されましたが、その第1号は静岡県缶詰製造最低賃金で、業者間協定によるものでした。まず産業別の最低賃金の整備が進み、その後、地域別最低賃金が各都道府県ごとに制定され、地域別と産業別の二本立てという仕組みが形成されてきました。もともとは産業別の最低賃金を前提に、産業別の最低賃金の対象とならない人のために、地域別最低賃金があるという構造になっていたことは留意すべきです。
地域別最低賃金はすべての労働者を対象とし、特定最低賃金は特定の産業(職種)の基幹的労働者を対象とするものですから、特定最低賃金は、地域別最低賃金よりも高い水準の最低賃金が必要な場合に設定するものとされており、当然のことながら、地域別最低賃金を下回った場合には、無効となってしまいます。
ところが2007年以降、地域別最低賃金がそれまでに比べて急激に引き上げられてきたのに対し、特定最低賃金の引き上げが追いつかず、結果的に特定最低賃金が地域別最低賃金を下回り、無効となる事例が出てきました。地域別最低賃金と地域の「生活保護基準との整合性」を図るために、地域別最低賃金の引き上げ額がとくに大きかった東京、神奈川では、すべての特定最低賃金が無効となってしまっています。
おりしも政府の「ニッポン一億総活躍プラン」(2016年6月閣議決定)において、最低賃金を「年率3%を目途として」引き上げていく方針が打ち出されています。
それ自体、賃金の底上げ・格差是正に向けて、きわめて重要な施策であることは言うまでもありませんが、一方で、地域別最低賃金の引き上げに見合った特定最低賃金の引き上げが行われなければ、ますます多くの特定最低賃金が無効になってしまうことになりかねません。
2015年度について見ると、全国で235件の特定最低賃金のうち、地域別最低賃金の引き上げ額以上の引き上げ額を確保しているものは、残念ながら43件に止まっています。新潟、島根、岡山、山口では、すべての特定最低賃金引き上げ額が地域別最低賃金引き上げ額以上となっており、青森、宮城、愛媛、福岡でも、多くの特定最低賃金が地域別最低賃金以上の引き上げ額となっている一方で、30の都県では、地域別最低賃金の引き上げ額以上を確保した特定最低賃金がありません。
特定最低賃金の新設や金額改正は、都道府県ごとに設置され、公労使が委員となっている最低賃金審議会において合意すればよいのですが、もともと経営者団体が、特定最低賃金を「屋上屋」として廃止を主張していることが、地域別最低賃金の引き上げに見合った特定最低賃金の引き上げができていない背景にあります。「屋上屋」との批判を跳ね返し、特定最低賃金の存在意義、役割、地域別最低賃金との違いを再確認し、公労使で共有化することが、いま必要となっています。
市場経済原理における特定最低賃金の役割
市場経済が健全に機能するかどうかは、ひとえに、市場において適正な価格形成が行われるかどうかにかかっています。
計画経済の下では、為政者がすべてを決定し、それを強制するわけですが、市場経済においては、市場参加者が、「価格」という情報に従って自らの行動を決定するのです。
適正な価格形成にとって何よりも重要なのは、市場参加者、すなわち売り手と買い手、売り手同士、買い手同士の対等性の確保です。市場には、財・サービス市場、労働市場、金融市場という三つの市場がありますが、財・サービス市場においては、独占禁止法により、カルテルや優越的地位の濫用を禁止して、市場参加者の対等性確保を図っています。労働市場においても、とりわけ売り手と買い手の対等性を確保するための仕組みが必要です。
「対等性」とは具体的に何か、ということになると思いますが、筆者は、
*機会の平等の確保
*交渉上の地歩(力関係)の対等性の確保
*情報の非対称性の解消
*リスクの衡平性の追求
などが、「対等性」の要件として挙げられるのではないかと思います。
もともと労働市場では、労働力の売り手である勤労者は、買い手である企業に対して弱い立場にありますが、労働組合が組織されていれば労使対等が確保され、対等の立場に立った労使交渉により、わが国の経済力、産業の競争力に相応しい賃金・労働諸条件を決定することができるはずです。しかしながら、労働組合未組織の企業では、勤労者の立場を補強する仕組みがないと、売り手と買い手の対等性が確保されず、従って、労使対等の交渉によって決定される賃金水準よりも、低い賃金となってしまいます。
そうなれば、労働組合の組織されている企業の賃金についても、未組織企業の賃金水準の影響を受けて、下押し圧力にさらされることになります。
労働市場において、労働力の価格である賃金が、わが国の経済力、産業の競争力に相応しい水準よりも低いものになると、その影響は財・サービス市場に波及し、財・サービス市場では、供給過剰・需要不足の状態が生じます。
こうした不均衡は、デフレ、生産性の低下、雇用削減によって調整するしかありませんが、これらが勤労者生活の向上、産業の健全な発展、経済の持続的な成長という観点からして、望ましくないことは言うまでもありません。
こうした事態を回避するためには、労働組合に組織された企業における労使交渉の結果を、未組織企業に波及させることによって、労働市場全体で、労使対等の交渉によって決定された賃金水準を確保することが必要となります。そのためには、産別労使交渉によって締結された労働協約の拡張適用が本来の姿ではあるものの、企業別組合が中心のわが国では困難であることから、その機能を一部代替するものとして、特定最低賃金があります。
法定最低賃金には、特定最低賃金のほかに地域別最低賃金がありますが、特定最低賃金は労働市場において、市場経済原理に則った労働力の適正な価格形成を促す仕組みであるのに対し、地域別最低賃金は、憲法で定められた「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を保障する社会的な仕組みである点に留意する必要があります。
かつて、経済的規制は撤廃、社会的規制は強化、というようなことがよく言われていました。しかしながら、こうした区分けは正確とは言えません。たとえば独占禁止法は、明らかに経済的規制であって、社会的規制ではありませんが、これを撤廃すべきだと考える人はいないでしょう。社会的規制は強化、というのはそのとおりだと思いますが、経済的規制については、
①既得権益をはじめ特定の市場参加者を保護する、有利にするような規制は撤廃する。
②市場参加者の対等性を確保するような規制は強化する。
ということになると思います。そうした点で、地域別最低賃金は社会的規制であり、労使対等の交渉によって決定された賃金水準を未組織企業に波及させるための特定最低賃金は②である、と言うことができるのではないでしょうか。
労働組合と賃金、生産性の関係
独立行政法人経済産業研究所の分析によれば、
*労働組合の存在は、企業の生産性の水準および伸びのいずれに対しても有意なプラスの効果を持っており、労働組合の賃金への効果もプラスだが、生産性への効果と同程度の大きさであり、結果として労働組合の企業収益へのマイナスの影響は確認されない。
*この結果は、企業規模、企業年齢、業種を調整しても有意である。
とされています。労働組合の組織された企業は、未組織企業に比べて生産性、賃金とも高く、また未組織企業との対比で生産性の高さと賃金の高さとは見合っている、ということになります。
労働組合、生産性、賃金の三者の因果関係は明らかではありませんが、労働組合がまず原点にあって、
①労働組合があるために生産性が高く、そのために賃金が高い。
②労働組合があるために賃金が高く、そのために生産性が高い。
のいずれかということになります。労働組合は生産性向上に参画しており、建設的な労使関係も高生産性に寄与することが考えられます。高生産性が高賃金を可能にする点についてはおそらく異論がなく、また高賃金が高生産性をもたらすことも、広く共有化された認識と言えます。
①、②のどちらかというよりは、高生産性と高賃金とは互いに相乗効果を及ぼし合っていると考えるのが自然です。
未組織企業は労働組合の組織された企業よりも生産性が低いのだから、賃金が低くても当たり前、労使交渉の結果を未組織企業に波及させる仕組みは必要ない、という見方があるかもしれません。しかしながら、特定最低賃金のような労使交渉の結果を波及させる仕組みがあって、やっと未組織企業の賃金が、労働組合の組織された企業との対比で見合ったものになっているのだとも言えます。
もし、特定最低賃金が無効・廃止となれば、労使交渉の結果を未組織企業に波及させる仕組みの一角が崩れるわけですから、
第1段階:未組織企業の賃金が、労働組合の組織された企業との対比で生産性の低さ以上に低いものとなり、生産性と賃金のバランスが崩れていく。
第2段階:低賃金が低生産性をもたらし、スパイラルが発生する。
第3段階:組織された企業においても、未組織企業の賃金の影響を受け、賃金水準が低下し、これによって生産性にも悪影響が生じる。
第4段階:人的能力、現場力が損なわれ、産業・企業の競争力、成長力が失われる。
という状況に陥っていくことが懸念されます。
この10年近くにわたり、地域別最低賃金がそれまで以上に引き上げられてきたことを受けて、東京と神奈川については、すべての特定最低賃金が地域別最低賃金を下回って無効の状態となっています。
またその他の道府県においても、地域別最低賃金との差が著しく縮小している特定最低賃金が少なくありません。にもかかわらず現時点では、低賃金と低生産性のスパイラルは発生していませんが、これには、都心の再開発ブームや2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催など需要拡大による労働力需給の逼迫、地方では人材の流出などによって人手不足となっていることが作用しているのではないでしょうか。
とはいえ、現在の労働力需給の逼迫が、将来にわたって継続するとは限りません。長期的に生産年齢人口は減少していきますが、労働力に対する需要は財・サービスに対する需要によって決定され、財・サービスに対する需要は現役世代の所得に依存しているため、生産年齢人口の減少が労働力需給の逼迫に直結するわけではないからです。公的年金・医療・介護は現役世代の拠出で賄われているので、引退世代の財・サービス需要も現役世代の所得に依存しています。特定最低賃金が失われた中で、人手不足が解消されれば、低賃金と低生産性のスパイラルが発生する可能性も否定できません。
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