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(浅井茂利著作集)ロシアのウクライナ侵攻による教訓
株式会社労働開発研究会『労働と経済』
NO.1673(2022年4月25日)掲載
金属労協主査 浅井茂利
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2022年2月、危惧されていたロシアによるウクライナ侵攻が、ついに現実のものとなりました。本稿を執筆している3月下旬時点では、解決の兆しはまったく見えておらず、「教訓」を得るにはまだ早すぎる段階であるというのは十分承知していますが、それでも今回の侵略から、わが国として、産業・企業として、労使として、学ぶべきことが多いのではないかと思います。
専制的な体制と自由にして民主的な体制との戦いが完全に復活した
1989年のベルリンの壁崩壊とそれに続く東西冷戦の終結により、東側の専制的な体制と、西側の自由にして民主的な体制との戦いが終結し、自由にして民主的な体制が完全な勝利を収めたはずでした。ソビエト連邦はロシア連邦として民主化され、中国は中国共産党による一党独裁こそ続いているものの、経済が発展し、国民生活が豊かになるにつれ、自由化・民主化が進むものと想定されていました。
しかしながらそれは完全な勘違いで、ロシアも中国も、自国の経済が発展し、自由にして民主的な国々によるサポートの必要がなくなると、プーチン大統領や習近平国家主席による強権政治、個人崇拝が顕著となり、国内における人権抑圧がむしろ強化されるようになりました。対外的にも、ロシアは2014年にクリミア半島、今回はウクライナ各地に侵攻し、中国は「一帯一路」によって途上国を借金漬けにして支配力を強め、あるいは専制的な勢力、独裁者を支援することにより、中国の政治・社会システムを世界に浸透させようとしています。
いまや専制的な体制と自由にして民主的な体制との戦いが、完全に復活したということが言えると思います。
中国に対する「新冷戦」を宣言したのが、2018年10月4日の米国ペンス副大統領演説でしたが、今回のロシアによるウクライナ侵攻は、ペンス演説を本気で受け止めてこなかった人々に対しても、「冷」戦ではないかたちで、両陣営の戦いを白日の下にさらしたということになると思います。
1972年のニクソン大統領の訪中以来、米国の指導層の認識は、「中国は、わたしたちと同じような考え方の指導者が導いている。脆弱な中国を助けてやれば、中国はやがて民主的で平和的な大国となる。しかし中国は大国となっても、地域支配、ましてや世界支配を目論んだりはしない」というものでした。
胡耀邦や趙紫陽、ロシアのエリツィンといった指導者は、「わたしたちと同じような考え方」の指導者だったかもしれません。しかしながら、鄧小平については、まさに「韜光養晦(とうこうようかい)」、すなわち、野心を隠し、力を蓄える、という姿勢であったわけで、習近平に至っては、もはや野心を隠さず、国内外に圧力を強めています。
プーチンについては、政権についた当初から、現在のような独裁を意図していたのかどうか、筆者には判断する材料がありません。しかしながら、少なくともロシア憲法による大統領の任期の上限である2期(当時1期4年)を終了し、メドベージェフ大統領に交替した際に、首相に就任したことを見逃すべきではありませんでしたし、さらにその4年後の大統領復帰と任期の延長(1期6年)以降は、最大限の警戒をもって臨むべきでした。そのあと相次いだ反政府要人の暗殺や未遂、クリミア半島への侵攻に対して、自由にして民主的な国々が有効な対応をとってこなかったことが、今回の大災厄をもたらしたのは間違いありません。自由にして民主的な国々にとっては、ヒトラーに対する宥和政策が、結局は第2次世界大戦を招いたことの再来であると思います。
日本には、いまだにロシアとウクライナの戦争をどっちもどっちという感覚でとらえている人がいるようですが、独裁や人権抑圧を是とするのでない限り、そうした見方は間違いであるということを、何度でも強調したいと思います。
トランプ大統領による同盟関係の毀損と民主党政権の外交下手
今回のウクライナ侵攻の背景には、自由にして民主的な国々の同盟関係が毀損しているという判断が、ロシアにあったのではないかと思われます。米国のトランプ前大統領は、プーチン、習近平、金正恩といった独裁者に対する親近感を隠さず、自由にして民主的な国々の同盟関係にひびを入れてきました。もちろん、ペンス副大統領、ポンペオ国務長官、マティス国防長官、ボルトン国家安全保障担当補佐官といった側近によって、そうした動きは封じられていましたが、そもそもトランプ大統領の当選自体、自由にして民主的な体制の弱体化を示し、専制的な体制の優位性という誤解を抱かせるのに十分であったと言えるでしょう。
一方で、矛盾しているように思えるかもしれませんが、もし米国が共和党政権であったならば、ロシアも慎重に行動した可能性は否定できません。民主党政権は伝統的に安全保障政策に疎く、例えばクリントン政権では8年間のうち4年間、オバマ政権では6年半にわたって、共和党の人材が国防長官を務めてきました。ロシアがクリミア半島に侵攻した2014年は、まさにオバマ民主党政権の時代で、国防長官は共和党のチャック・ヘーゲルでしたが、国家安全保障担当補佐官のスーザン・ライス(ブッシュ(子)政権のライス国務長官とは別人)との対立が激しく、その隙を突かれたという面があると思います。
ミャンマーの軍事クーデターは中国の後押しによるものと見られていますが、発生したのは2021年2月で、まさにバイデン政権の発足直後でした。バイデン政権の新冷戦対応は、トランプ政権(トランプ大統領ではない)の政策を継承しており、米国のブリンケン国務長官は2021年3月、大統領を含むバイデン政権のメンバーの多くがオバマ大統領に仕えたが、2017年や2009年と同じではなく、オバマ政権とは戦略とアプローチが異なる、と述べています。しかしながら、アフガニスタンからの撤退においては、米国が中国と中東という二正面作戦を回避しようとするあまり、民主党の「外交下手」の側面が出てしまい、ロシアがバイデン政権与やすし、と判断した可能性はあると思います。
マクドナルドのある国同士は戦争をしない、という法則は幻想に過ぎませんでしたが、核兵器保有国同士が戦争することはない、という核抑止力は、いまのところ維持されています。今回のウクライナ侵攻は、ウクライナがNATOに加盟し、その核の傘に入ろうとしたことが直接的なきっかけとされていますが、今回の侵攻こそ、ウクライナがNATOに加盟することの必要性、正当性を立証するものということができるでしょう。
わが国としても、核兵器を保有しかつ専制的な国々と海を挟んで対峙している以上、米国、英国、カナダ、豪州、NZなど自由にして民主的な国々との同盟関係の強化・構築が、きわめて重要となっています。
今後の世界経済
ナポレオン1世による大陸封鎖令以来、経済制裁には効き目がないと思われてきましたが、グローバル経済が進んだ結果、経済制裁はきわめて大きな効果を発揮する状況となっています。もちろん、「返り血」を浴びることは避けられないので、国としても、産業・企業としても、その覚悟をもって、新しい経済体制に対応していかなくてはなりません。
ロシアで事業を展開していた日本企業は、軒並み事業を停止していますが、その過程では、見苦しい事例も見られました。
あるSPA(製造小売)企業では、「衣服は生活の必需品。ロシアの人々も同様に生活する権利がある」として、いったん事業を継続する方針を示しましたが、国内外の轟々たる非難を受けて、結局、事業停止に追い込まれ、国際感覚、人権感覚の欠如を世界中に知らしめることとなりました。黙って事業を継続していただけならばまだしも、どうみても通用しない理屈をつけたことで、かえって正義、人権、人命よりも利益優先という姿勢が浮き彫りとなってしまいました。
今後の世界の経済体制は、ロシアによるウクライナ侵攻がどのような方向に向かっていくのかによって、かなり変わってくることになります。
もし、ロシアがウクライナを武力で屈服させ、ウクライナを併合したり、傀儡政権を作って属国とした場合には、専制的な体制と自由にして民主的な体制との戦いはいよいよ深まり、経済の分断(デカップリング)は、決定的になると思います。
一方で、たとえばプーチン大統領が失脚するなど、ロシアが専制的な体制から自由にして民主的な体制に復帰する状況が見られるならば、再びロシア経済はグローバル経済に統合されていくことになるのだろうと思います。
経済安全保障と人権、そして労働組合
しかしながら、そうした場合でも中国の独裁体制は残ります。プーチンの失敗を踏まえ、その勢いはやや削がれると思いますが、中国共産党の独裁体制が崩壊しない限り、専制的な体制と自由にして民主的な体制との戦いは続くことになります。単なる「対立」や「貿易戦争」「覇権争い」ではなく、人権を賭けた戦いですから、自由にして民主的な国々にとって妥協の余地はありません。
産業・企業という観点からすれば、今回の最大の教訓は、専制的な体制の国々で事業を行うことのリスクの大きさということだと思います。
輸出については、安全保障貿易管理(武器や軍事転用可能な素材・部品・製品や技術が、わが国や国際社会の安全性を脅かす国家やテロリストなどに渡ることを防ぐため、先進国を中心とした国際的な枠組みを作り、国際社会と協調して行っている輸出規制)に則ったものであれば、とりあえず許容されると思います。しかしながら輸出規制は、一般的に考えられる以上に広範囲なものであり、ベアリングや通信用光ファイバー、ディーゼルエンジンなどといったごく一般的な品目も、規制のリストに含まれています。今後、さらに強化されていくことは不可避であり、ある日突然、罪に問われることにならないよう、企業として十分慎重な対応が必要になっています。
なお、これまで武器産業、防衛産業の企業は、ESG投資(環境・社会・企業統治に配慮している企業を重視・選別して行う投資)の対象となりにくかったのですが、ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、むしろ人権を守るために不可欠な産業として、位置づけが大きく変化してきています。
専制的な国々からの輸入、とりわけ、資源・エネルギーや、重要な素材・部品などの輸入については、サプライチェーンの持続可能性確保という観点から、極力縮小していく必要があります。専制的な国々からの輸入に依存したサプライチェーン構造になっていると、
①専制的な政府に企業の生命線を握られることになり、その圧力に抵抗することが困難となってしまう。
②グローバル市場において、人権抑圧に「加担」しているとみなされる可能性があり、消費者や国際社会からの非難を招くことになりかねない。
ということがあります。
専制的な国々に生産拠点を設けることについては、あくまで現地での消費地生産ということであれば、とりあえず許容されると思いますが、有事の際には、現地の資産はすべて接収されるという覚悟が必要です。輸出拠点としている場合には、人権抑圧に加担しているという批判と、輸出できなくなる可能性に備えておかなければなりません。
専制的な国々の企業と共同で行っている研究開発については、できるだけ迅速に解消させるべきだと思います。自由にして民主的な国々との関係がますます悪化することにより、共同の事業が困難になっていくことはもちろんですが、それだけでなく、
*本来は企業機密である情報が専制的な政府に筒抜けになる。
*そのため、共同研究開発を行っている企業は、自由にして民主的な国々の市場やバリューチェーンから排除される。
ということも避けられないと思います。
わが国においても、今後、人権デュー・ディリジェンスが本格化することになりますが、専制的な体制と人権抑圧が密接不可分である以上、巨大な市場に目を奪われ、目先の利益確保に走りがちな経営側に対し、労働組合として、人権確保の観点に立った経営を促していく必要があります。