Civic Humanism and Its Role in Anglo-American Thought (1968)④

13 古典的共和主義の理論は、極端な個人の自律というエートスを必要としていた。この要件は、興味深いことに、封建制の名誉のエートスや自尊というピューリタン的なエートスが同様に満たすことが可能であった。人と物質的環境との関係の発展からシヴィック・ヒューマニズムが挑戦を受けたと見られるのは、17世紀後半と18世紀においてであった。この過程の歴史を紐解くことで、腐敗という概念が観念の歴史ideas of historyにおいて果たした役割について、われわれは多くを学べる。内戦(1642-51)後のイングランドでは、政治的共同体を以前よりも階層構造としてではなく、むしろ政体a polityとして定義する必要が生じたようである。この新たな定義は、法的財産legal property、特に土地財産と統治権力との関係が政治における中心的な問題である、高度に統治化された農本的社会というコンテクストにおいて進められなければならなかった。ハリントン(1611-1677)とロック(1632-1704)の間の40数年間に―その後の歴史においては前者によってより多くの影響を被ると私〔ポーコック〕は考えているのだが―、明確にイギリス的な、あるいはむしろ英米的なタイプのシヴィック・ヒューマニズム(7)を構成する政治の概念が現れつつあるということが見受けられる。主要なアリストテレス的伝統に忠実でありながら、市民としての個人は政治への参加における自律によって認識されると、このシヴィック・ヒューマニズムは明言したが、それは特に、そうした自律の物質的基盤に関心を抱いていた。プロパティの役割は個人を独立させることにあり、この目的を果たすプロパティに関する理想的なパラダイムは、決して唯一の形態ではないものの、土地の相続可能な自由保有地であった。アイアトン(Henry Ireton, 1611-51)とハリントンにとって、イングランドのポリスは自由土地保有者の共同体であった。ハリントンはこれを古典的且つポリュビオス的共和国の形態で描こうと試み、1660年以降でさえハリントンの後継者たちはハリントンの思想を、イングランドの財産制度propertyを依然として準独立的な行政府still quasi-independent executiveに関連づけるという問題に適応したのだった。

14 このコンテクストにおける自由土地保有の要点とは、それがその所有者を他者への依存、さらには他者との関係にさえもできるだけ関わらせないようにすることであり、その結果として、その所有者を古典的な意味での市民citizenshipとしての厳格さを完全に実現するために自由な状態に保つことである。他の財産形態は容易に多く存在し、それが容易に譲渡可能であるほど不信感をもって見られる。「容易に得たものは容易に失う」と、ハリントンは市場的な意味での財産について述べている(8)(なお、マクファーソンはこれを認識していない)。しかし、ハリントンの態度は両義的である。というのも、ハリントンは流動性のある財産mobile propertyが独立や市民としての能力を与えることを否定しているのではなく、流動性のある財産の所有者が土地を相続した者と同じくらい財産と政治的自由を維持できるかどうかを疑問視しているだけである。市場財産market propertyの所有者は他者との交換関係によって定義され、したがって自由土地保有者の持つ確固たる自律を欠いている可能性があると言える、という点が認識されるのは遅かった。農本的なシヴィック・ヒューマニズムagrarian civic humanismの発展において、本質的な対立とは、領地manorと市場の間の対立ではなくむしろ、未分化な農本的社会unspecialised agrarianと専門分化した地代収入型官僚社会specialised rentier-bureaucratic society*4との間の対立である。この理由は、この伝統に属する思想家の関心が一貫してシヴィックで政治的であったためである。

15 プロパティの役割は、市民に独立を保障することである。そのプロパティが市民を救わなければならない依存とは、他者への政治的依存であり、腐敗を構成するものとされている。そして避けるべき重要な経済的なあり方とは、プロパティと政治的依存が密接に結びついているものである。土地所有者proprietorが誰かの封臣である封建社会がその好例である。ハリントンは、領主によって下賜された土地を保有するという従属関係tenurial subordinationの喪失をシヴィック・ヴァーチューの復活とみなしたが、ハリントンの後継者たちは領主と封臣という世界はそもそも存在していなかったと自分たちを言い聞かせることができたのであった。商人は、どのような留保があったとしても、交換関係によって政治的従属に巻き込まれることはなかった。企業家entrepreneurに対する偏見は一般的に考えられている以上に18世紀の農本主義においては一般的なものではないのだ。その時代の人文主義者らをますます恐れさせたのは、公的権力への依存に伴う経済的あり方の突然の出現であった。もしプロパティの目的が独立であるならば、独立の目的は市民であるということと道徳的人格moral personalityである。市民であるということを構成する権力との関係を持つことができるのは、自律した人間だけである。君主政や執行府executive governmentの下でこのことは、独立は何よりもまず公的権力からの独立でなければならないということを意味した。土地所有者を―さらに悪いことにはプロパティを―政府に依存させるものはなんであれ、腐敗のうちの最も悪いものであった。というのも、そのことは彼の市民という身分citizenshipを損なうだけでなく、政府そのものを公的な権威から私的な利益という悪の道へと導くことになるからであった。権力の担い手から賄賂を受け取る市民は、その言葉の一般的な意味において腐敗しているのみならず、古典的な意味においても腐敗していた。つまり、そうした市民はその賄賂を与えてくれる人物や機関に依存するようになり、共和政ローマ末期の軍人のように、市民からクライアントへと堕落する可能性があった。

16 ところが、1700年頃に社会的類型がいくつか現れ、それらの存在のあり方はまさに、単なる悪漢の買収よりも重大な腐敗の発生源に等しいものであった。これらは第一に、債権者rentierや株主stock-holderであった。彼らの財産は政府に貸し付けた資金で構成されており、政府が収入を提供することを彼らは期待していた。第二に、軍人や文官の役人であり、彼らは政府だけが十分に報酬を与える技能(時にはそれさえないこともあったが)を持つことで生計を立てていた。こうした人々はある意味で市民以下、アリストテレスのいう「バナウソス(職人)(banausic men, βάναυσος)*5である。それは、彼らがただ一つの能力の発達に特化しているためであった。ところが、banausicであることはまた潜在的に、あるいは事実上腐敗していることであった。こうした個人の社会的な悪とは、そうした存在が政府に対する依存関係という点で定義できるということであり、対照的に、唯一真に有徳であり実際に人間である市民という存在は、その市民が参加している政府から独立しているという点で定義された。しかし、古典思想は債権者rentier、役人や官僚を定義し、政治的動物以下の存在として非難するためのパラダイムを提供したものの、経済的現実において、彼らの存在は新たな歴史的現象の力をもって18世紀の人々に衝撃を与えた。チャールズ2世治世(1660-85)の中頃から、イングランド銀行の設立〔1694〕と国債の創設、南海泡沫事件〔1720〕やウォルポール政権〔1721-42〕への知識人らによる反対intellectual opposition、さらにのちのアメリカ史において、革命のその後の時代にかけて、ハミルトン(1755or57-1804)やアメリカ銀行〔ポーコックの原文ではUnited States Bankとなっており不明だが、第一合衆国銀行(1791年公認)のことか〕に対する反対に至るまで、この種の人々がますます一般的になりつつあるという高まりつつあった恐れを辿ることができる。さらにその恐れは、彼らが政府に侵入し、そこで腐敗をもたらすに過ぎないとされること、そして権力者たちが政治体を腐敗させるという意図的な目論見で彼らを利用しているのだということであった(10)。時折、明らかに妄想的な響きを帯びた論調paranoiac noteが見られ、それは、この時代の政治的規範やパラダイムと社会的現実の認識との間に真の危機が存在していることを明らかにしているように思われる。その危機は、歴史的変化に関する18世紀の態度を考察する際に最も明瞭に現れる。

17 シヴィック・ヒューマニズムにおける市民の個人的自律への関心は、その自律を最もよく定義し保護する財産形態として自由土地保有を選び出すに至った。ヨーロッパとイングランドにおける学問の歴史に内在するいくつかの理由から、17世紀末の理論家らが中世の時代を振り返り、土地財産landed propertyが社会的関係の唯一の決定要因であったと捉えることが可能であった。多くの18世紀の理論家らが封建制(彼らは「ゴシック」と呼んでいた)社会を考える際に領主と封臣との関係は可能な限り排除されていたが、彼らが注目したその社会の特徴とは、彼らの時代では政府の専門的な役人によって遂行されていた軍事的・司法的・行政的な機能を土地所有者らが果たしていたことであった。18世紀の理論家らの考えでは、「ゴシック」の土地所有者を古典的市民と同等視させるのはこの点であり、彼の政治的人格を保障したのはその封土や自由保有地の独立した相続可能性independent heritabilityであった。また、「ゴシック」という用語が文化史や美学の言語において野蛮の同義語であり続けながらも、政治の言語においては高い賛辞を表すものであったということは偶然というわけではない。市民であるということと文化が部分的には相容れないのではないか、という切実な疑念がシヴィック・ヒューマニズムの信条の中には内在していたのである。これは、再び「スパルタ的な」イメージが作用していることの現れであった。「ゴシック」の政治における自由と専門家の不在を称賛した人々は、中世の農本主義には見られなかった文化的・政治的特徴の多くが18世紀の世界に存在する理由を説明しなければならなかった。彼らはしばしば、中世末期に富や文化が増え広まっていったという点から説明した。一方で、このことは個々人が13世紀の領主の文化的水準を超えることを可能にした。しかし他方で、市民権のある者freemenが、兵士や判事、あるいは統治の当事者となるための時間を残しておかないような娯楽に特化することを助長した。こうした役割を有給専門家や国王の従者へと委ねてしまったことが、事実上腐敗と同義である職業化された社会the professionalized societyへの道を開いたのであった。

[original text]
  The theory of classical republicanism required an ethos of extreme personal autonomy – a requirement, it is interesting to note, which a feudal ethos of honour and a Puritan ethos of self-respect seem to have been equally capable of meeting. It is in the late seventeenth and the eighteenth century that the paradigms of civic humanism may be observed under challenge from the development of human relations with the material environment, and the history of how this came about tells us much about the role in the history of ideas of the concept of corruption. In post-Civil War England a need seems to have existed to define the political community rather more as a polity and rather less as a hierarchy than had been the case before, and this formulation had to go on in the context of a rather highly governed agrarian society where the relation between legal property – outstandingly in land – and governing authority was the central question of politics. In the forty or so years between Harrington and Locke – and affected during its subsequent history, I believe, more by the former – there can be seen emerging a concept of politics which constitutes a distinctively English, or rather Anglo-American, brand of civic humanism(7). True to the main Aristotelian tradition, this declared that the individual as citizen might be known by the autonomy of his participation in politics, but it was peculiarly concerned with the material basis of that autonomy. The function of property was to render the individual independent, and the ideal paradigm – though not, by any means, the only form – of the property which did this was an inheritable freehold in land. To Ireton and Harrington, the English polis was a community of freeholders; the latter attempted to depict it in the form of a classical and Polybian republic, and even after 1660 his successors applied to his ideas to the problem of relating English property to a still quasi-independent executive.
  The point about freehold in this context is that it involves its proprietor as little as possible in dependence upon, or even in relations with, other people, and so leaves him free for the full austerity of citizenship in the classical sense. Other forms of property – and these are easily many – are regarded with distrust in proportion as they are easily alienable. “Lightly come, lightly go”, says Harrington (unnoticed by C. B. Macpherson) of property in the market sense(8); but his attitude is ambiguous – he does not deny that mobile property confers independence and the capacity for citizenship, and only questions whether the owner of such property can be trusted to keep it, and his political freedom, as long as the inheritor of land. The point was slow to arise that the possessor of market property is defined by his exchange relationships with other men, and may therefore be said to lack the entrenched autonomy of the freeholder. In the evolution of agrarian civic humanism the essential antithesis is not that between the manor and the market, but rather that between an unspecialised agrarian and a specialised rentier-bureaucratic society; and the reason for this is that the concerns of thinkers in this tradition were unvaryingly civic and political.
  The function of property is to guarantee the citizen his independence. The dependence from which it must save him is the political dependence upon others which constitutes corruption, and the modes of economic being which it is important to avoid are those in which property and political dependence go hand in hand. A feudal society in which the proprietor is someone’s vassal is a case in point, and Harrington saw the disappearance of tenurial subordination as the restoration of civic virtue, but his successors were able to persuade themselves that the world of lords and vassals had never even existed(9). The merchant, whatever reservations one might have about him, was not involved by his exchange relationships in political subordination, and a prejudice against the entrepreneur is far less common in eighteenth-century agrarianism than is supposed. What increasingly frightened the humanists of that age was the apparition of modes of economic being which involved dependence upon the public power. If the end of property was independence, the end of independence was citizenship and moral personality. Only the autonomous man could have those relationships with authority which constituted citizenship, and under monarchial and executive government this meant that independence must above all be independence of public authority. Anything which made the proprietor – or worse still, his property – dependent on government constituted the worst kind of corruption, for it not only lessened his citizenship but perverted government itself from a public authority into a private interest. A citizen who took bribes from men in power was not only corrupt in the common sense of the word, but corrupt in the classical; he was liable to become dependent on that source of supply and, like the soldiers of the late Roman Republic, to degenerate from a citizen into a client.
  The civic humanist concern with the personal autonomy of the citizen had led to the selection of freehold land as the form of property best defining and protecting that autonomy. For reasons that lie within the history of European and English scholarship, it was possible for the theorists at the end of the seventeenth century to look back on a medieval period in which landed property had been the sole determinant of social relationships. The relation of lord to vassal being as far as possible eliminated from the picture, the feature of feudal – or as they termed it “Gothic” – society on which many eighteenth-century theorists seized was the performance by the landowner of the military, judicial and administrative functions performed in their own day by specialized servants of government. It was this that in their minds equated the “Gothic” freeholder with the classical citizen, and it was of course the independent heritability of his fief or freehold that guaranteed his political personality. Nor is it accident that the term “Gothic” should have been one of high praise in the language of politics, while remaining a synonym for barbarism in the language of cultural history and aesthetics; there was implicit in the creed of civic humanism a real doubt whether citizenship and culture were at least partly incompatible – the “Spartan” image at work once more. Those who applauded the liberty and lack of specialization of “Gothic” politics had to account for the presence in their world of many features, both cultural and political, not to be found in medieval agrarianism. Not infrequently they constructed an explanation in terms of the increased diffusion of wealth and culture at the end of the Middle Ages; this had on the one hand enabled individuals to rise above the cultural level of a thirteenth-century baron, but no the other hand encouraged freemen to specialize in pursuits which left them no time to be soldiers, judges or participants in government; and the surrender of these functions to salaried experts and servants of the king had opened the way to the professionalized society which was virtually synonymous with corruption.

(7) For a fuller study of Harrington’s thought and his role as the principal English civic humanist, see the next essay in this volume and “The Onely Politician: Machiavelli, Harrington and Felix Raab”, Historical Studies: Australia and New Zealand, XII, 46 (April, 1966), pp. 165-96. The lastnamed is a review article centering around Felix Raab, The English Face of Machiavelli (London and Toronto: Routledge and Kegan Paul, and University of Toronto Press, 1964).
(8) Harrington’s place is rather with the former tradition tan with the latter, where Macpherson would locate him. I hope to deal further with this problem in an edition of Harrington’s works, now in process.
(9) See below, pp. 120, 135-37, 138-39, 141-42.

訳註
*4 rentier-bureaucratic societyという用語はここでは「地代収入型官僚社会」と訳したが、”rentier"という単語には地代収入以外の不労所得(例えば、年金や配当など)も含まれる。このことを鑑みれば上記の訳はやや不適切かと思うが、ここでの論点はあくまでもagrarianとrentier-bureaucraticとの対比、すなわち、自分の所有している土地を実際に経営管理している人間と、自分が所有している土地を他者に貸し出し、土地から離れていく人間との対比である。
*5 アリストテレス『政治学』第3巻第5章にバナウソス(職人)に関する議論が展開されている。

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