この鍵はいつ渡されていつ失くすのか
おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする
/東直子『春原さんのリコーダー』
先日、生沼さんと花山さんの日々のクオリアの完走お疲れさま会に参加した。
実は、昨年はお二人の連載を心待ちにしていたものの、実際は読めていない時期が長くて、若干ためらいながら顔を出した。いざ参加してみると、心配することは何もなかったし、自分なりのペースで短歌を楽しんでいけばいいのだという気持ちになった。
さて、冒頭にあげた歌の主体は、いつ鍵を渡されて、いつ失くしてしまうのだろうか。
花山さんの読みは「いま」を捉えている。
「おねがいね」に含まれる相手からの信頼や期待を感じ取りそれに応えなければという心理が、緊張を生んで、いま「渡されているこの鍵」を不確かな予感の象徴のように眺めることになる。「この鍵」は「失くしてしまう気がする」という「予感という現場」のなかに置かれることになるのだ。
この歌の解釈にいくつかの意見があることを承知の上で、わたしは、鍵を渡されたのは「過去」なのだと読んでいる。(むちゃくちゃ周回遅れの話であることもわかっているが、気になったのは今なのだ)
「日本語文法と短歌」松村正直 角川「短歌」2017年2月号
「歌を死なせては元も子もない」花山周子 塔短歌会時評2017年7月号
「日本語の「現在形」について」東郷雄二 攪乱追放2017年7月17日
「この鍵」と限定されている「鍵」は主体と同じ瞬間に存在している。そして主体は「失くしてしまう」かもしれない「未来」に不安を抱いている。
その瞬間には「わたし」と「鍵」だけがある孤独な空間があり、おねがいねと渡された過去と、失くしてしまう(かもしれない)未来とは、それぞれ同じくらいの距離を持って感じていると捉えたい。
渡され「て」いる
なくし「て」しまう
この歌の主眼は、ふたつの「て」でつながれている時間の経過だ。もっといえば歌のなかで位相の転換が二度あることだ。過去のある時点で鍵が自分とともにある状態に変化し、未来のある時点で鍵が自分から離れてしまう可能性を示唆する。
鍵を渡されたときは、鍵を託した誰かとともに居ることで、鍵は自分と一体となって確かにここにある。
しかし「この鍵」を渡されたのは、ついさっきかもしれないし、数日から数年の時間が過ぎているのかもしれないが、この瞬間ではない。
そしてまた「この鍵」を失くしてしまうのも、すぐにかもしれないし、数日から数年の時間をイメージしているのかもしれないが、この瞬間ではない。
鍵は、物理的な「鍵」かもしれないし、比喩としての「キー」かもしれない。踏みこんで何らかの立場や役割の暗喩も取ることも鑑賞の自由であろう。
もちろん、今まさに手渡されている鍵を失くしてしまう未来を想起する、という読みはビビッドで魅力的である。
ただ「鍵」という名詞のイメージや「おねがいね」「気がする」という口調が示す状況を汲みとるだけでは、主体が存在している時間の流れを捉えきることはできないのではないだろうか。
この歌では「渡されている」と「失くしてしまう」という動詞と助詞との組み合わせが、明快な対句として歌の骨格を作っているからこそ、この歌の持つ漠然とした不安感が読者のなかに立ち上がって来る。これらの動詞は受動態や推量であって、自分の意思とは切り離されているニュアンスも重なっている。
そのうえで、繰り返す「て」の音が作るリズムや、初句と四句の字余りが、過去と未来が切り離されている「今この瞬間のわたし」の孤独で不穏な感じを表現しているように思うのだ。
ふたたび、花山さんの読みに戻る。
そして、そのような「わたしの現場」は「文語文体」によって客観視されるのではなく、口語のつぶやきとして主観そのものが切り出されていることでここに現出しているのではないだろうか。そのような直接性がダイアローグであると思うのだ。そしてだから読者の私自身が、体験的に歌の「わたしの現場」に立ち合うことになる。「わたしの現場」が「内的」に共有されるのである。
「わたしの現場」に立ち合う、「わたしの現場」が「内的」に共有される、という鑑賞はものすごくリアリティにあふれている。東さんの短歌の特徴が的確に表現されていて、何が新しいのか、何が今までの短歌と違う役割を提示しているのかがとてもよくわかるし、提示された論点をもっと深く読み解きたいと感じさせてくれる。
一方で(そんなことはわかりきっているから書くまでもないのかも知れないが)文語文体を含む既存の短歌の型式の持つ豊穣な時間や空間の捉え方が、東さんの作品のベースにあるからこそ、その新しさが普遍性を持って伝わって来るのだと思う。
鍵を渡されたのが「今」であっても「過去」であっても、「わたしの現場」は「今ここ」にある。そして、その「わたしの現場」を読者が「内的」に共有するためには「鍵」そのものがあれば充分ではないかと考えている。
【て】
〔完了の助動詞「つ」の連用形からでたものといわれる。ガ・ナ・バ・マ行五段活用の動詞に付く場合には「で」となる。形容詞型活用の語の後では「って」の形をとることもある〕
[一](接助)
動詞型および形容詞型の活用語の連用形に接続する。前後の句を単に接続するのが本来の用法である。
⑧あとに補助動詞が続く形で、動作・作用の様態をさまざまに表現するのに用いる。「見上げ━いる」「書い━しまう」「行っ━みる」「し━やる」「読んであげる」「木を切っ━くる」
【いる】
[二](補助動詞)
③動詞の連用形に助詞「て(で)」の付いた形を受ける。
㋐主体の動きを表す動詞に付いて、その動きが継続・進行中であることを表す。「空を飛んでいる鳥」「雨が降っている」「今、手紙を書いている」
㋑主体の変化を表す動詞に付いて、その結果が持続していることを表す。「入り口のドアがあいている」「時計が止まっている」「小鳥が死んでいる」
【しまう】
④(補助動詞)動詞の連用形に助詞「て(で)」を添えた形に付いて、その動作がすっかり終わる、その状態が完成することを表す。終わったことを強調したり、不本意である、困ったことになった、などの気持ちを添えたりすることもある。くだけた言い方になると「てしまう」が「ちまう」「ちゃう」となる。「忘れて—・うに限る」「寝過ごして—・った」「すっかりお手数をかけて—・いました」「見られて—・った」「指を挟んで—・った」
[可能]しまえる
(語義はいずれも大辞林より抜粋した)