Red-lit Shimmy【小説の書き方】
タイトルからは内容が分かりにくいですね。Red-litは赤く点灯するの意味で、Shimmyは肩や腰を激しく振って踊るジャズダンスの一種で、異常な振動のような意味に転じて使われる場合もあるそうです。
さて、この言葉がどこから来たかと言いますと、下の記事です。
映画「エクス・マキナ」のガーランド監督が挿入されたダンスシーンについて語っています。(以下、要約)
「カズオ・イシグロの小説『私を離さないで』の映画化で最終的な出来には満足しているにも関わらず、大きな間違いを犯した事に気付きました。『ギア・チェンジの大胆さが足りなかった』のです。作品の中にある『トーン』を見つけ、うまくその『トーン』を挿入できましたが、それを維持し続けたのです。『エクス・マキナ』ではRed-lit Shimmyによって作品の『トーン』をぶち壊し、観客を目覚めさせたのです。」
私もこの映画は見ていましたが、このシーンにそんな意図があったとは全く気付きませんでした。それ以前にこの作品がそんなに評判の良い映画とも知らずにDVDで観ていて面白いなと、記憶に残っていただけです。
確かにこのシーンが無いか、別のシーンが挿入されていたとしても作品としては成立しそうです。ですが、作品はもっと重々しいものなっていた事は間違いないはずです。
制作側からすれば、作品の印象が重々しかったとしても目的は果たせます。過不足無いか、観客の想像を超える重さで作り上げて「どうだ!」と自信を持って公開できます。ただし、観客がそこまで着いてきてくれるかどうかは別なのかもしれません。途中で嫌になってしまうかもしれません。
ここから得られる教訓は、作品が制作側が見事に作り上げたというだけでは成立しないという事ではないでしょうか。
小説を書く時にも同じ事が言えそうに思われます。私が小説を書く時には、もちろん他の多くの作家さんもそうでありそうですが、自分のアイデアを完成したパズルのように完璧に組み合わせた孤高の作品を書こうとします。もちろん読者が「理解できるか」は考慮しますし、ある程度どう感じるかも考慮します。
ですが、「エクス・マキナ」のダンス・シーンの挿入のように完全に気分を変えさせる、正気に戻すまではしません。しかも、有っても無くても構わないシーンをわざわざ挿入してそこまではしません。本編に何らかの関連のある意味深なシーンしか入れません。それを入れてしまうと一種の敗北のように思ってしまうからです。
さて、今、「奴隷ラムシル 連載版」を徐々に進めていますが、こうした事も考慮して書き進めて行きたいと考えています。
追加
本当の敗北は、意図的に入れた無関係なシーンでなくて、繋ぎで入れざるを得なかった繋ぎのシーンをカットできない事かもしれませんね。
現在は書いている最中ですのでnoteの更新は滞りがちになりますがどうかお忘れ無きようお願いいたします。