一方井亜稀さんへの返答
2022年に『ソネット集 附 訳詩集』という本を思潮社から出した時、詩手帖年鑑の新鋭展望のところに一方井亜稀さんが短評を書いてくださいました。『ソネット集』は古典主義的な文語定型詩を集めた本なのですが、一方井さんはそれを「ソネットが途切れた時代からの現代への接続」の試みと解釈されたようで、「ひとつ気になるのは、断絶された間にある戦争という大きな分岐点をどう捉えるかということである。あくまでも戦前から戦後への接続という視点で見る場合のことだが、この前後で何が断絶されなかったのかを考えることは形式を捉えるためにも必要なことに思える」という批評を下さり、「戦後なぜ形式より自由律が主流になったかという問いに別の角度からアプローチする」ことも大切なのではないかという問いかけが短評の主眼となっていました。要は、「戦前の詩では形式が重要視されていた。しかし戦中の国粋主義への反省から、戦後は自由詩が主流になった」というような文学史観をもとに、「戦前の続きをやろうとするのもよいが、今の自由詩が戦争への反省から始まっていることの意味も良く考えて、もう少し別の視点から形式というものを考えてみてもよいのではないか」とご助言をくださったような形です。
この短評を読んだとき、何だか自分が戦前に憧れるナイーヴな懐古主義者だと誤解されているようで居心地の悪い気持になったのですが、返答を書く機会も場所も無く、結局なにも書かずそのままにしてしまっていました。しかし今度、日本の建国神話を語る『国始事』を刊行するにあたり、「やっぱり誤解されたままではまずいのではないか」と心配になってきたので、遅ればせながら、一方井さんからの批評に対する返答という形で、「文語定型詩を書いているからといって、懐古趣味ではないし、第二次世界大戦を踏まえていないわけでもない」ということを説明したいと思います。
形式は戦前のものではないということ
まず最初にはっきりとさせたいのは、私が朔太郎、賢治、中也などの作品をあまり高く評価しておらず、そもそも戦前の日本の詩に対する憧れを持っていないということです。文語定型詩を書いてはいても、「戦前と戦後の接続」を試みているわけではないのです。
ではなぜそのような誤解が生じてしまったのかと考えると、やはり「戦前は文語と定型が重要視されていた。しかし戦中の国粋主義への反省から、戦後は口語自由詩が主流になったのだ」という誤った文学史観が原因なのではないかと疑われてきます。そのような文学史観が何に由来するのかを私は知らないのですが、言われてみればそんなような話を他の人の文章の中にも読んだことがあるような気がするので、意外と広範囲に広まっている誤情報なのかもしれません。
戦前の日本文学における最重要詩集を一冊あげるとすれば、それは朔太郎の『月に吠える』ということになると思います。そしてこの詩集がなぜそんなに重要なのかと言えば、当然ながら、それが日本の詩歌に口語自由詩を確立させた一冊と見なされているからです。朔太郎が「日本近代詩の父」と呼ばれているのも、この口語自由詩の確立という功績によるものであり、何か新しい詩の定型を確立させたことによるわけではありません。よって、「戦後、形式より自由律が主流になった」という認識は間違いであり、実際は戦前からすでに自由律が主流だったのです。「戦前に朔太郎によって口語自由詩が確立されたところから、日本の近代詩が本格的に始まった」というのが正しい日本文学史です。
戦前における文語定型詩と言えば、朔太郎よりも前の世代にあたる藤村や晩翠の作風がそれに当たると思います。しかしながら、かれらが用いた韻律は江戸の俗謡に連なるような調子であり、おそらく現代の読者からすれば、近代詩というよりもむしろ江戸文学と近代文学をつなぐ過渡期の作品のように感じられるのではないでしょうか。私としても、かれらの作風を復活させたいなどとは微塵も考えていません。
あるいは「ソネットが途切れた時代」と仰った時の一方井さんの頭の中には、中也や道造の存在があったのかもしれません。しかし、中也も道造も結局固定的なソネットの形式を確立させたわけではないので、「中也や道造によってソネット形式が確立されたが、その後戦争によって道が途絶えてしまった」と言うのは無理があると思います。日本のソネットについて言うならば、「確立されたものが戦争によって途絶えてしまった」というよりは、「何一つ確立されないうちに戦争に突入して立ち消えになってしまった」と言う方がまだ実情に近いのではないでしょうか。
さて、では次は百聞は一見に如かずということで、藤村、晩翠、中也、道造の作品と、『ソネット集』に収録されている私の拙作から、それぞれ詩句を抜き出して並べてみます。実際の作品を並べてみると、私が単なる懐古主義者ではなく、戦前の人たちとは全然違うことをやろうとしているのだということが少しはわかっていただけるかもしれません。
いかがでしょうか。こうして改めて並べてみると、私の作品が江戸でもなければ戦前でもないということが少しはわかっていただけるかと思います。また小さなことかもしれませんが、私のソネットは一応押韻詩になっており、「エ、イ、エ、イ、エ、イ、エ、イ」と規則的に脚韻を踏んでもいます。(背景にある押韻論の詳細については、また別の機会にお話しします。)
定型詩は必ずしも右翼的なものではないということ
上では「戦後、形式より自由律が主流になった」という認識が間違いであるということをお話ししました。そこで話を終えても良いのかもしれませんが、もうひとつ気にかかるのは、一方井さんの言い方だと、あたかも形式を捨てて自由詩を書くことだけが戦争という断絶を踏まえた態度であり、定型詩を書くことは戦争を反省していない態度だということになってしまいそうなことです。そうした考えはともすれば、「自由詩は左翼的なので良く、定型詩は右翼的なので悪い」という短絡にも繋がりかねません。そのためここでは最後に、そのような考え方は実際の文学史に全く適合しないという話も付け加えようかと思います。
日本文学史において戦争と詩の関係を考える時、真っ先に問題になるのは戦中に書かれた戦意高揚詩です。中でも高村光太郎や高橋新吉が書いたものは悪名高く、戦後には「文学者の戦争協力」というような話になって、作家の責任が問われることにもなりました。このことは確かに、現代日本で詩歌の創作をする者ならば知っておかなければならない歴史です。
しかしながらかれらの実際の作品を読むと、「戦中に書かれた戦意高揚詩への反省から、戦後は自由律が主流になった」という文学史観には致命的な欠陥があることがわかります。というのも、高村光太郎や高橋新吉が書いたその肝心の戦意高揚詩が、そもそも自由詩だからです。
実際の作品を見てみましょう。
両方とも言い訳のしようがない完全な戦争協力詩ですが、流麗な韻律を奏でる端正な定型詩などでは無く、堅苦しい漢語を多用した自由詩です。結局、こうした戦争協力詩も朔太郎による口語自由詩の確立の後に書かれたために、その多くが必然的に自由詩の流れを汲んでしまっているのです。上に引用した『ソネット集』収録の作品と比べると、私のソネットとかれらの戦争協力詩が、作風の上で全く異質であることがわかっていただけるかと思います。
そして実はこの現象は日本のみに留まりません。例えば英語圏における20世紀の自由詩の第一人者と言えば、自由律の長大な叙事詩”The Cantos”を書いたエズラ・パウンドの名前が上がりますが、パウンドは筋金入りの本物のファシストであり、戦後には国家反逆罪で逮捕されて精神病院に収容までされています。またフランスにおいても、愛国詩人のシャルル・ペギや保守派の外交官でもあったポール・クローデルは自由詩の作品で知られており、全然定型詩の専門家ではありません。自由詩が必ずしも自由主義に繋がるとは限らないのです。
また反対に定型詩の中を探せば、自由の女神のもとに刻まれていることで有名なエマ・ラザラスの"The New Colossus"はきれいな定型のソネットですが、内容は大量移民の受け入れを全肯定する左翼的なものです。またジャマイカ出身のクロード・マッケイによる定型ソネット”If We Must Die”は、虐げられる者の立場から人種差別への抵抗を力強く歌い上げる詩であり、これも全く右翼的ではありません。さらに言えば、日本近代文学史上もっとも有名な反戦詩は与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』であり、七五調の文語定型詩なのです。結局、反戦とか戦争協力というのは詩の内容によるのであり、形式によって決まるわけではないということです。
結語
以上、現代日本で文語定型詩を書くということは、決して戦前回帰ではなく、戦中の戦争協力詩への反省を欠く行為でも無いということをご説明しました。(余談ですが、右翼の人たちは文語定型詩よりも、旧かな遣い旧字体の口語自由詩を書く印象があります。私は新字体肯定派なので、その点でも違うかもしれません。「実は旧字体よりも新字体の方が伝統に則している」という話についても、いつか気が向いたら書きたいと思います。)
それでは、ここで終わりにします。少し長めの文章になってしまいましたが、これによって誤解が解けることを祈ります。