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渋沢栄一はどのように志を立てたのか?

本シリーズを読んでくださっている方から、
「毎回楽しく読んでいます。示唆に富んでいて勉強になります」
とコメントをいただいた。大変ありがたい。そんな方々のためにも、書き続けたいと思う。

前回は、渋沢栄一がいかにしてグローバルな視点で考えられるようになったのか、その軌跡を追った。今回は、「いかにして栄一の大義、信念が生まれたのか」をテーマに探求する。

栄一は大義のことを「大きな志」「立志」と言っていた。彼が立志してからは、ブレずに行動し続け、日本の資本主義の父と呼ばれるまでになった。
栄一自身も「国家のために商工業の発達を図りたいという考えが起こって、ここで初めて『実業界の人になろう』との決心がついたのであった。このとき立てた志で、わたしは今に至る40年あまりも一貫してかわらずにきたのである」※1と述べている。
ではなぜ、栄一は生涯、ブレずに一貫して志に基づいた行動をし続けることができたのだろうか。その立志までの軌跡をたどってみよう。

グローバル視点を持つきっかけになったヨーロッパ視察を、不本意な形で終了させられ、帰国した栄一は、またもや失意の中にいた。
それもそうである。「武士になると同時に当時の政治体制をどうにか動かすことはできないだろうか、(中略)政治家として国政に参加したいと大望を抱いた」※1とあるように、その大望を果たすために、幕府に仕えていた栄一にとっては、生きる目的が無くなったに等しい。加えて、青春時代に苦楽をともにした渋沢喜八は戦争に出ているため、連絡を取ることすらもままならなかった。これも彼の心境に影響を与えたと思われる。

失意の底にいた栄一は、またもや徳川慶喜の配慮によって救われ、静岡に商法会所を起こすことになる。商法会所とは、簡単に言うと銀行と商社の機能を合わせ持った組織のことである。(詳しくはこちらを参照してほしい。※2)ここがヨーロッパ視察で構想を練っていた「合本主義」の実践の場となった。「合本主義」とは、公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方のことである。この実践は大いに成功を収めた。他藩が藩札の出納に四苦八苦し、赤字を垂れ流す中、静岡藩だけは明朗会計かつ革新的なビジネスモデルで、黒字を出し続けた。この成功は、栄一の実力と合本主義という思想を世に知らしめるきっかけとなった。この当時の栄一は、このまま商法会所を運営し続け、静かに暮らし、静岡で骨を埋めるつもりでいた。

しかし、時代の寵児たちが、それを許すはずもなかった。大久保利通、大隈重信や徳川慶喜などそうそうたるメンバーが栄一を説得した。最終的には大隈重信の「八百万の神達も神計りに計るわけには参るまいから、官の組織を整然と設くる必要があろう」(※2を基に編集)という言葉に納得し、官僚になる。
そこでも、栄一は力を発揮して、周囲から認められるようになったが、彼には物足りなかったようだ。軍備を拡張するために、積極財政を主張する政府と国の借金を返済や経済再生のために緊縮財政を主張する栄一らとで、真っ向から意見が別れた。最終的には、怒りのまま意見書をぶつけ、井上馨とともに下野した。以後彼が、政治家や官僚に就くことはなかった。

それから彼の実績により、第一銀行の頭取となり、先程述べた立志を固め、日本の経済発展のため、国を豊かにするために実業界で力を発揮し続けた。彼が官ではなく、民にこだわり続けた根底には、おそらく「合本主義」があったのだろう。目的を達成するために、一人ひとりの知恵を出し合い、コトやモノを創造する。これこそが、国を豊かにすると考えていたのではないだろうか。そして、それは、官よりも民のほうが実現しやすかったのだろう。合本主義については、別テーマで、詳しく述べる。

こうして見ると栄一が立志をするまでは、幕臣⇨商法会所⇨大蔵省⇨第一銀行と組織を転々としていたわけだ。別の言い方をすると、第一銀行に定着するまでは、生涯貫いてやろうと思えるものを探していたのかも知れない。

さて、今回のエピソードから私は2つのことを感じた。
1つ目は、栄一は自らのアイディアで仕事を楽しんでいたということである。
栄一は失意の中でありながらも、与えられた仕事で手を抜くことはなかった。それどころか、どこかに必ず彼らしい工夫がほどこされていた。それを彼は、趣味を持って仕事をすると述べている。趣味とは、「ワクワクするような面白みをもつこと」※1である。仕事を与えられたからには、誠心誠意対応し、さらには自分らしいアイディア持ち、工夫をしていったのである。だからこそ、彼の仕事は周囲の評価を得ていたのだと思われる。
重要なことは、彼が周囲に認められようが、認められまいが、創意工夫をやめることはなかったということである。評価のために、やっているのではなく、純粋に仕事を楽しんでいたのだと思う。それこそが、結果的には、多くの人に認められる近道なのかも知れない。
そして、仕事に趣味を持ち続けることで、ものごとの可能性を探求し続けることもできるのではないだろうか。

2つ目は、得意なことで仕事をしているが、自分の心の声は聴き続けたということである。つまり、自分が大切にしている価値観や動機を探求し続けていた。だから、下野を決心した際にも「もともと自分の性質や才能から考えても、政界に身を投じることは、むしろ自分の向かない方向に突進するようなものだ」※1と迷いがなかったのだ。出世や名誉と天秤にかけていたら、下野はとてもできない決断であったのではないだろうか。彼が人生の節目となる決断をしたとき、何よりも自分の志を優先したのだ。
もしかしたら、皆さんの心の声も囁いているかも知れない。もしそうであれば、一度耳を傾けてみてはいかがであろうか。

2つのことを掛け合わせると
「ものごとを楽しみながら可能性を探求×心の声に耳を聴く(聴き続ける)」
このことが、立志には必要なのではないだろうか。

志を立てたが、行動が伴っていない。皆さんの周りにもそんな人はいないだろうか。
では彼が立志の後にどのような思想を持ち、行動したのか。次回は「合本主義」を探求しながら、そのことを解き明かしていきたい。

(了)

引用文献:
※1渋沢栄一、守屋淳『論語と算盤』ちくま新書
※2渋沢栄一記念財団 デジタル版「実験論語処世談」(2)


参考図書:
城山三郎 『雄気堂々 上下』新潮文庫
渋沢栄一 『雨夜譚』岩波書店
渋沢栄一、守屋淳『論語と算盤』ちくま新書
木村昌人『渋沢栄一 民間経済外交の創始者』中公新書
渋沢栄一記念財団 デジタル版『渋沢栄一伝記資料』第2巻
渋沢栄一記念財団 デジタル版「実験論語処世談」(2)

筆者:
株式会社ジェイフィール
和田 誠司


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