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探索の準備としてのからだへの意識

探索という言葉にはどんなイメージがあるのだろうか。

からだの声を聞く旅」OBOGと対話していて、探索というと、月面探索や、水脈の探索などという未知の世界への探索であって、それらの探索には必ず準備や道具が必要になるという話しが興味深かった。

からだの声を聞く力は、世界を探索する準備なのではないだろうか。

「からだの声を聞く」というのは、喩えの言葉である。説明的には、からだへの意識を育てるということになるだろう。
からだへの意識が育っていないと、感情に気づきにくく、直感的にアイデアを掴むことが難しいと言われている。
感情に気づき、直感を信頼することは、未知の世界を探索することに必用なのではないだろうか。

大人が探索をするために必要な準備はからだへの意識と言葉の巧みさのバランスなのだろうと思う。

からだへの意識が無い子どもはおそらく居ない。言葉を覚えるに従い、考えへの意識が育っていく。言葉には未来や過去を扱えるという特技があって、現在への意識が離れることにも繋がる。
過去や未来だけに囚われると悩み苦しむという弊害も生まれる。からだへの意識は、悩み苦しみから離れるためにも有効である。
言葉の巧みさと、からだへの感覚を共に育てることが、大きくなった人が探索するためにしていく準備なのかもしれない。

準備が調った人が仲間になれる。

未知の世界に旅立つには、同じだけ準備が調っている人が居てくれると助けになる。なぜならば、予想不可能なことがまっているのが探索だからだ。
準備にも、段階がある。「からだの声を聞く」ことであれば、身体感覚の低下状態している「失体感症」という症状の状態。それほどでなくても、疲れを感じずにがんばり続けてしまう状態。疲れを感じて休める状態。からだの感覚を使って、情況を把握する。からだの感覚を使って考える等の段階があると思っている。

疲れを感じられない人に、からだを感じて創作しようとは誘いをかけることはできない。しかし、温泉に行こうよ誘うことは不可能ではなさそうに思う。

同じ準備ができているひとが、共に行動できるということだ。

休めない人にとっては、休むことは未知の世界である。それは、まさに探索行動だ。怖いかも知れない。それでも、同じ仲間。または先人が共に歩んでくれることで、未知の世界へ踏み入れることは不可能ではないと思っている。

「からだの声を聞く旅」は、まずは自ら休めるようになることを目指している。そして、できれば、からだをつかって考え、言葉とからだのバランスが調うことを求めていると、ここまで書いていて、確認できた。

からだの声を聞く旅については、こちらの記事を参照してください。


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