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蘇る9/11同時多発テロ取材の思い出

 あの衝撃的な瞬間を見た人は一生忘れることはできません。ちょうど20年前の9月11日に米国で発生した同時多発テロのことです。
民間航空機を使った前代未聞のテロ事件はその光景がテレビ中継され、全世界に激しい衝撃を与えました。

 事件発生後、航空機の運航が再開されるとすぐに私は現地に飛び、テロの生々しい爪痕を取材しました。炎上し轟音とともに崩れ落ちたニューヨークの世界貿易センタービル。無残に突き破られたバージニア州アーリントンの国防総省本庁舎(ペンタゴン)。ハイジャックされペンシルベニア州ジャンクスヴィルで墜落してバラバラになったユナイテッド航空93便の残骸。

 テロリストたちを含む3000人近く(日本人24人)が死亡し、25000人以上が負傷するという大惨事でした。死者の中には必死で救助に携わった多くの消防士や警察官が含まれていました。 

 さらに米政府の対応を取材するため首都ワシントンに飛んだ私がまず目にしたのはおびただしい数の星条旗でした。到着した空港、市内へ向かう道路、ビルや店舗の壁面、そのすべてが大小の星条旗で飾られていました。星条旗をデザインしたシャツを着た人々もたくさんいました。

 テレビ画面に現われたニュースキャスターもこぞって胸に小さな星条旗のピンをつけていた。それは史上初めて本土攻撃を被った米国民が即座に表現できる国家への忠誠のしるしでした。その後のアフガニスタン空爆、炭素菌事件がさらに不安を増幅させ熱狂的な愛国心を奮い立たせていきました。星条旗はためく街で、米国のジャーナリズムも日ごろの権力批判とは対照的に国威高揚を求める論調で埋め尽くされました。

 あれからすでに20年の時が過ぎたとは、にわかに信じられない気持ちです。

 始まりは9月11日朝、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州ダレス、ニュージャージー州ニューアークを飛び立った4機の旅客機がアラブ系のグループによってほぼ同時にハイジャックされたことからでした。

 そのうち2機がニューヨークの世界貿易センターのツインタワーに次々と突入、爆発炎上。残りの2機のうち1機は鉄壁の守りを誇っていた国防総省に突っ込み、分厚いコンクリートの壁を突き破って炎上しました。私が現場に到着した時まだ煙が上がっていました。

 米国議会か大統領官邸を狙ったとみられる最後の1機は犯人と乗客がもみ合いになり、ペンシルバニア州ピッツバーグ郊外に墜落し全員が死亡しました。勇気ある乗客たちがハイジャック犯に飛びかかった際に合図として使われた言葉は”Let's roll(さあ、やろうぜ)”だったそうです。

 明らかに米国の経済、軍事、政治の要所を標的とした組織的、計画的なテロ攻撃でした。後に犯行はオサマ・ビンラディンをリーダーとした国際テロ組織「アルカイーダ」によるものと判明。怒りに燃えたブッシュ政権はテロとの戦いを宣言し、アフガニスタン・イラク戦争へと突き進んでいったのです。

 普段は声高に人権を叫ぶ米政府が、バンカーバスターやディジーカッターと呼ばれる非人道的な無差別大量殺戮爆弾をアフガニスタン住民の頭上に雨あられのごとく降らせました。わずか3ヶ月程前には「ならず者国家」と呼んでいたパキスンンを突然「戦友」扱いに。かつてアメリカにとって「自由の戦士」だったビンラディンが最大の敵となったからです。戦争はいつも矛盾だらけです。

 巨像とアリの戦争だと誰しも思いました。ところが、ビンラディン殺害に10年もの年月と巨額の戦費を費やしビンラディン殺害に10年もの歳月をかけたにも拘わらずアフガン戦争は泥沼化し、米軍に多くの死者が出たのです。

 当初は熱烈に攻撃を支持したアメリカ国民もすっかり熱が冷め、代わりに批判の声が日増しに大きくなっていきました。そしてついに今年、バイデン大統領が完全撤退を決意、実行したのです。アメリカにとってはベトナム戦争を彷彿とさせる屈辱的な敗走でした。

 ビンラディンの遺体写真や映像は公開されることなく、イスラムの儀式に従ってアラビア海で米空母から水葬されたと発表されていますが、いまだに反論する専門家もいます。生きて捉えていれば事件の知られざる背景が明らかになっていたかもしれないからです。

 数年前、私はグラウンドゼロ(爆心地)とよばれるワールドトレードセンター跡地を訪れました。そこには公式追悼施設として造られたナショナル・セプテンバー11メモリアルがありました。大きなふたつの滝のモニュメントの縁に刻まれた2983名の犠牲者の氏名を目にして、心締め付けられる思いでした。

                     (写真はmuseum-hopper.net)



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