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レイプや近親相姦で妊娠しても中絶禁止

 アメリカで今「ハートビート(心臓の鼓動)」を巡って大論争が巻き起こっています。
 といっても心臓病についてではありません。南部テキサス州で9月1日から施行された妊娠6週目以降の人工中絶を全面禁止する州法のことです。超音波検査で胎児の心拍が確認できるのがおよそ6週目以降なのでこの名称がつけられました。

 しかしそんな早い段階では妊娠に気がつかない女性がほとんどです。それなのにレイプや近親相姦による妊娠でも6週目以降の中絶は禁止という徹底ぶり。これでは殆どの女性が中絶を受けることができません。まるで半世紀前に逆戻りしたような状況が起きています。

 しかも取り締まりに協力した市民はクリニックの医師など「犯人」に民事訴訟で1万ドル(約112万円)を請求できるというのですから、もう異常事態というしかありません。

 宗教大国アメリカでは、これまでも大統領選度が行なわれる度に妊娠中絶の賛否が決まって大きな政治的争点になってきました。しかし、今回は様相が一変しています。傍若無人なトランプ前大統領を支持する保守層やキリスト教原理主義者の多い南部を中心に反中絶運動が急激に広がり、全米を震撼させているのです。

 歴史を溯ると、1900年頃のアメリカではほぼすべての州で中絶は禁止されていました。カトリックや福音派のプロテスタントなど中絶反対派(プロ・ライフ派)が、旧約聖書の中で神が「生めよ増やせよ」と言っていることやモーゼの十戒で「汝殺すなかれ」と戒めていることなどを理由に、なにがなんでも胎児の生命を最優先したからです。

 しかし時代が進むにつれて女性の選択を重視する中絶容認派(プロ・チョイス派)が支持を広げるようになりました。

 そしてついにその日がやってきました。1973年1月22日、合衆国最高裁判所の判事たちは7対2で「妊娠を継続するか否かに関する女性の決定は、プライバシー権に含まれる」として胎児が子宮外でも生きられるようになるまで(通常妊娠22~24週)は女性に中絶の権利があると認めたのです。「ロー対ウェイド(Roe v. Wade)」として今も画期的な判決として知られています。

 妊娠していた未婚女性と彼女に中絶手術を施して逮捕された医師などがテキサス州ダラス郡の地方検事ヘンリー・ウィエドを相手取って起こした訴訟でした。原告名の「ジェーン・ロー」は安全のため彼女の身元を秘匿するために使われた仮名です。

 ところが、リベラルな判例を覆そうとするトランプ大統領の登場で風向きが一変してしまいました。2011年以降、なんと480以上の中絶規制法案が各州で成立しています。いずれも「ロー対ウェイド」を根拠に違憲とされ発効が阻止されてきました。しかし今回、権利擁護団体がテキサス州中絶禁止法を違憲だとして連邦最高裁に差し止めを求めたところ、判事らは5対4でその請求を退けてしまったのです。


 背景には、中絶禁止合法化を公約としていたトランプが任期中に9人の最高裁判事(終身)のうち3人を保守派に入れ替えたことがあります。そのため以前は拮抗していた最高裁のパワーバランスが今では保守派6人対リベラル派3人と保守派に圧倒的に有利になっているのです。

 「甚だしく憲法違反の法律を差し止められたのに、判事の多数が見て見ぬふりをすることを選んだのです」

 リベラル派のソニア・ソトマイヤー最高裁判事は反対意見で悔しさを露わにしました。

 人工妊娠中絶問題は、これまでにも増して、[生命」や「人権」といった倫理の問題ではなく、トランプに乗っ取られた中絶反対派の共和党によって政争の具として使われるようになったのです。

 2019年にジョージア州で「ハートビート法」が成立した時にはハリウッド女優のアリッサ・ミラノが「セックス・ストライキ(同法が撤回されるまで性行為拒否)」を呼びかけたところ多数の女性が賛同し、男たちを慌てさせたことがありました。結局、連邦地裁が憲法違反だとの判断を下し同法は撤廃されましたが、今回はそう簡単にはいかないでしょう。

 来年の中間選挙を前に、アフガン撤退や新型コロナ対応で支持率が急降下している民主党のバイデン大統領にとってはハートよりもむしろ頭の痛い状況なのです。 (写真はreuters)


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