忘れえぬ街シュツットガルト(前編)ポルシェとフェラーリの紋章がどちらも「跳ね馬」である理由
誰しも思い出の街というのがあります。私の場合はそのひとつがドイツの工業都市シュツットガルトです。初めて取材に訪れたのはもう10年以上前のことでしたが、いまだに鮮明に覚えています。
飛び立って飛び立って12時間余り。すでに最終着陸態勢に入った機内から目的地を見下ろすと、眼下に広がっていたのは以外にも緑豊かな街並みでした。丘陵の斜面には縞模様のぶどう畑さえ見えます。
シュツットガルトは人口63.5万を擁する南西ドイツ政治経済の中心地。工業都市だと聞いていたので煙突が並び立つような工場地帯を思い浮かべていましたが、その想像はみごとに裏切られました。
街の中心である宮殿広場から市外北部のヴィルヘルマ、キルレスベルクまでおよそ5kmにもおよぶグリューネル(緑のU)とよばれる緑地帯が、街全体を抱きかかえるように続いていました。
季節はすでに冬に入ろうとしていましたが、赤や黄色の葉をつけた広葉樹が人々の目を楽しませていました。記録的な暖冬のせいだったのでしょう。それにしても何故こののどかな田園都市で近代文明の象徴である自動車が生まれたのか。その答えを現地で確かめるのが旅の目的でした。
シュツットガルトの歴史は2千年近く前の古代ローマ帝国時代にまで溯ります。その頃は名もなく、これといった特徴もない集落のひとつだったようです。しかし10世紀半ばになるとドイツ南西部の為政者だったルドルフ公爵がその地に養馬場を始め、町が誕生したといわれています。
当時の名前はシュトゥーテン・ガルテン。後にそれが縮まってシュツットガルトとなりました。日本語に訳すと「雌馬の庭」。まさに雌馬を大切に育ててたくさん子馬を生産するために造り上げられた町だったわけです。
自動車など想像もできなかった時代のことです。馬は馬車を走らせる大切な動力源であるとともに軍備にも不可欠でした。大小の王国や公国が領土争いに明け暮れていた戦乱の中世ドイツで馬は軍隊の機動力そのものだったからです。ルドルフ公爵がせっせと馬の生産に励んだのは当然のことでした。
その歴史は今も形を変えてこの街で生きています。シュツットガルト中央駅からかつて馬の放牧場だったという宮殿公園へ歩いていくと、商店街のあちらこちらで前足を上げた「跳ね馬」のマークが目に飛び込んできます。もうお分かりでしょう。「雌馬の庭」はシュツットガルトのシンボルマークに姿を変えて今でも元気に嘶いているのです。
世界の自動車業界をリードするダイムラー・ベンツとともにシュツットガルトに本社を置くポルシェの紋章もじつはこの街で生まれた「跳ね馬」です。郷土を愛する心と歴史の重みが弥が上にも伝わってくるではありませんか。
地元の人からさらにもっと驚く逸話を聞かされました。イタリアのフェラーリが使っている「跳ね馬」マークもなんとシュツットガルトに由来するというのです。しかしなぜイタリアのスポーツカーメーカーがわざわざ異国ドイツの街のシンボルマークを採用したのでしょうか。
時代は第一次世界大戦中にまで溯ります。当時イタリアとの国境に近いヴェルテンブルク王国からイタリアに向けて出撃したドイツ空軍機には、13世紀から王国に帰属していたシュツットガルトの跳ね馬のマークが付けられていました。雄雄しく蹴り上げた前足で敵を蹴散らそうという意味合いがあったのです。
しかし敵も負けてはいませんでした。イタリアの撃墜王フランチェスコ・バラッカは、空中戦の末撃墜したドイツ機から戦利品として敵機の紋章を切り取り、祖国に持ち帰っていたのです。
やがて戦争終結。それから5年後の1923年にフランチェスコの両親は大好きな自動車レースを観戦に出かけました。そのレースで初優勝したのがアルファロメオのレーサーだったエンツォ・フェラーリだったのです。まさに運命の出会いでした。
息子が戦場から持ち帰った跳ね馬のエンブレムは幸運を呼ぶに違いないと信じていたフランチェスコの両親は、さっそくフェラーリにその紋章を使うように勧めました。そしてその提案を快く受けたフェラーリは1923年に会社を設立した際に跳ね馬を自社のマークとして採用したのです。
こうしてポルシェとフェラーリという世界の代表的スポーツカーメーカー2社が偶然にも同じシンボルマークを使うようになりました。そのルーツは、言うまでもなくどちらも「雌馬の庭」、つまりシュツットガルトだったのです。(続く)
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