政治は、リンカーンから学べ
もう10年以上前になるだろうか。日本で「ちょいワルおやじ」ブームというのがあった。雑誌『LEON』が提唱したちょっと不良がかった中年男性のファッションのことだ。まだ続いているかもしれない。とにかくその影響でにわかに無精髭をはやす男が増えた。
私もしばらくそのひとりだったが、アウトローのような遊び人の雰囲気が男心をくすぐった。年齢を重ねる「やんちゃジジイ」に昇格するらしい。
、米国では髭が人一大一大転機となった政治家がいた。ごぞんじ第16代大統領エイブラハム・リンカーン(1809~1865)である。ただし、リンカーンがひげを生やしたきっかけは女性にモテたいたいというような「ちょいワルおやじ」のような軽薄な理由ではなかった。
きっかけは11歳の少女から選挙遊説中に届いた一通の手紙だったという。その手紙にはこう書いてあった。
「私には4人の兄がいます。ひとりふたりはあなたに投票するに違いありませんが、もしあなたが髭をはやしたら、残りの兄弟もあなたに投票するようになるでしょう。あなたの顔は引き締まってもっと良くみえるようになるからです。髭が好きな女性は夫にあなたに投票するようにいうでしょう。そうすればあなたが大統領です!」
これに対してリンカーンは律儀に返信を送っている。
「親愛なるお嬢さんへ。あなたの素敵なお手紙を受け取りました。私には残念ながら娘がいません。3人の息子がいます。17歳と9歳と7歳です。息子たちと妻、それで私の家族全員です。髭についてですが、今まで生やしてこなかったのに、もし私が髭を生やし始めたらみんながおかしいと思わないでしょうか。」
それから一か月後には少女の助言どおりにリンカーンは豊かなあご髭をのばし、それがトレードマークとなってみごと米国大統領に当選したのである。
手紙の送り主はニューヨーク州に住んでいたグレース・ベデル。この少女が米国の歴史を変えたかもしれないのだ。なんとも楽しい逸話ではないか。
じつはリンカーンはチームづくりの天才だったという。たいていの指導者は内閣の顔ぶれを支持者だけで固めるだが、彼の発想はまったく逆だった。対立候補の3人を閣僚として迎え入れたのだ。その理由は明快だった。
「彼らはこの国でもっとも能力のある立派な男たちだ。彼らの能力を奪う権利は私にはない」
さすがリンカーンである。仲間内だけで組閣したがる日本の総理とは雲泥の差だ。ではリンカーンはどのようにして一癖も二癖もあるライバルを手懐けたのか。その秘密は相手と自分の気持ちをコントロールする繊細なアンテナだったという。
手柄は必ず公平に分配し、失敗の責任はすべて自分が負った。そうとうな自信家だったが、自分のエゴが目標達成の邪魔することは避けたという。
「国を統一し奴隷を解放するという共通の目的さえ見失わなければ、小さな意見の相違があっても協力してやっていけるものだ」それが彼の信念だった。
まさにマネジメントの極意でもある。そんなボスなら誰でも慕うようになるだろう。しかしリンカーンといえども人間である。キレそうになったことが幾度もあったという。そんな時にはどうしたのか。
部屋に籠って、相手に向けて怒りの手紙を書いたそうだ。そして自分の気持ちが落ち着くのを待ったという。つまり、一時の感情に流されない努力をしたのである。今の言葉でいえば、「アンガー・マネジメント」だ。その証拠に、それらの手紙が実際に投函されたことは一度もなかったという。
このリンカーンの例から分るように、たとえライバルであっても能力のある人間をうまくまとめることによって自分の価値を高めることができるのだ。米国の詩人ロバート・フロストも以下のような言葉を残している。
”Men work together, whether they work together or apart (人はともに協力して働くものだ。近くにいても、遠く離れていても)”
大統領に就任した翌年、リンカーンは手紙をくれた少女グレース・ベデルを訪れ、直接お礼の言葉を述べたという。髭をたくわえた米国大統領はリンカーンが初めてだった。1865年4月14日金曜日、首都ワシントンにあるフォード劇場での暗殺事件で命を落とすまで一度も髭を剃らなかったという。
リンカーンは共和党を代表する卓越した政治家だった。その伝統ある保守の共和党のリーダー、そして大統領に事もあろうに不動産王で政治経験のまったくなかったほら吹き男ドナルド・トランプが選ばれたのは、民主主義の旗手を標榜する米国で寛容と調和の精神が失われ、社会が分断されてしまったことの証左だろう。
ワシントンD.C.を訪れる度に、私は必ずナショナルモール西端に位置したリンカーン記念館を訪れる。ギリシャのドーリア式の建造物の中にはリンカーン大統領の威厳を感じさせる大きな座像があるからだ。それはまさに民主主義の尊さを思い出させてくれる記念碑だ。
人々は親しみを込めてリンカーンを「オネスト・エイブ」(正直者、エイブ)という愛称で呼んだ。ところが今や、民主主義の旗手を要望する米国の政治家(米国だけではないが)は、共和党も民主党も目先の私利私欲を求めて泥仕合を繰り広げている。この差は髭を生やしたぐらいではとうてい埋まらない。
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