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『女性兵士という難問-ジェンダーから問う戦争・軍隊の社会学』を読んで

本書は、佐藤文香(敬称略)による2022年出版の社会学の研究書である。
先行研究をきちんと踏まえた、まじめな勉強家が書いたものである。


根幹


本書の根幹にあるのは、次の二つ。
①女性兵士の現実というよりも、むしろ女性兵士の表象(イメージ)に軸足を置いている。
②佐藤は自らを「平和で公正な世界を希求してきたフェミニスト」だと位置づけている。

従って上の二つに共感できない読者は、本書に共感できない。
例えば、俺は戦争が嫌いだけれども、それじゃあ平和が好きかと訊かれれば、戸惑う。平和とは何か、よくわからないからだ。
人生で、「こんな平和がいいな」と思えたのは稀だ。片手の指で数えられるほど。
例えば、惚れた女と同じシーツにくるまって熱い夜を過ごした翌朝、カーテンから朝日が入るのを見ると、たしかに「こんな平和がいいな」と思う。隣でまどろむ彼女に軽く接吻をして、ベッドを抜け出し、クロワッサンを買いに行く。
でもおそらく佐藤にとって大事な「平和」は、そんな俺の平和な朝とは関係ないのだ。

例えば、俺は武装した人道介入に賛成だ。
ウクライナのキーウを防衛するため、自衛隊を派遣すべきだと思う。
そしてキーウの住民にも、そよ風のような接吻とカフェ・クレームとクロワッサンを楽しめる静かな朝をあげたいと思う。

女性兵士?一緒に戦ってくれるなら、大賛成だぜ。
足でまとい?そんなことねえよ。お互い様さ。


現実よりイメージが大事?


そもそも俺がこの本を手にとったのは、次の問いへの答えが落ちていないかと思ったからだ。すなわち「男女混合軍」は「男性のみ軍」に比べて、強いか弱いか。
「男女混合軍」の現実的戦闘能力はどうなのだろう。異性と共に戦うことで、チームワーク遂行能力は向上するのか否か。

しかし佐藤はこのような現実的問いかけに注目するよりは、むしろ女性が軍隊に入ることで、軍隊の政治的イメージが如何に変化するかを考察する。
そして日本を含む西洋諸国によるポストナショナルな平和維持軍では、平和を愛する女性のイメージと、女性特有のコミュニケーション能力が高く評価され、女性兵士は戦地の先住民女性から情報を得る仕事に従事していると説く。
そしてまさにそのことを、フェミニスト佐藤は、女性性の軍事利用だと批判する。


フェミニストの左翼的陰謀論


佐藤によれば、西洋諸国が主導するポストナショナルな平和維持活動は、実を言えば、外見をカモフラージュした「帝国主義戦争」なのだそうだ。そのカモフラージュ機能として女性兵士は利用されているのだそうだ。
俺はここに議論の飛躍を見る。
左翼的陰謀論ではないかと思う。証拠(エビデンス)が不十分だ。もう少し丁寧な説明を求めたい。

そもそも佐藤はどのような意味で「帝国主義戦争」という言葉を使用しているのか。
アフガニスタンの女性たちに、西洋の女性たちが享受している教育の権利を、同じように享受できるようにしてあげたいという意思の、何が悪いのか。「野蛮な先住民の女はスカーフを巻いて、イスラム原理主義者に強姦されていればいい」とでも言いたいのか。
もしもそうでないというのならば、批判だけ言っていないで、対案を提示すべきではないのか。

そもそもイラクやアフガニスタンを話題にしているところに、佐藤の古さを感じる(まあ、2022年出版だからやむをえないのだが)。
こんにちの「帝国主義戦争」はウクライナで、ガザで起きている。ロシアによる核兵器の恫喝や、歴史的なユダヤ人差別問題のせいで、むしろ西洋諸国はポストナショナルな平和維持軍を展開できないでいる。一方グローバルサウスは漁夫の利を狙って見て見ぬふりを決め込んでいる。そこが問題ではないか。


他人を理解しながら自分を理解する


それにしてもフェミニストの、いつでも誰かを批判ばかりする態度、なんとかならないものか。まるで立憲民主党。

フェミニストは、もしも軍人を研究対象とするならば、軍人を批判するのではなく、まずは軍人を理解しなさい。そして自分は軍人からどのように見られているのかと想像してごらんなさい。そこから自己批判が生まれ、学びが生まれる。他人様を批判して他人様に教えをさずけるよりも、ずっと生産的ではないか。

戦場という、明日死ぬかもしれない、ストレスフルな時空間で、女性も男性も軍人は、平和な社会のモラルから逸脱しがちになる。恋に落ちやすくなる。生きている肉体を抱きしめたくなる。モラルハザードが効きにくくなる。しかしそれで何がいけない?
そもそも平和な島国の生活規範が正常で、戦場が異常だと言えるのか?
佐藤には、そういう想像力が働かない。



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