見出し画像

「罪人」に寄り添う

この世の中には二種類の人間がいる。警官を見て、安心する人間と、逃げる人間だ。


「罪人」は「悪人」か


テレビを観ていると、多くの「罪人」たちが「魔女狩り」にあっている。
ほんとうに「罪」があるのかどうか、僕にはよくわからない。
だからカギカッコをつけよう。
おそらく「罪人」を鞭打つ野次馬たちも、ほんとうに「罪人」が悪いのか、自信がないに違いない。だから謝罪という名の自白を要求するのだろう。

「罪人」を「悪い人」だとか「怖い人」と一面的に決めつけるのは避けたほうがよい。
人間は多面的な生き物だ。
むしろ新聞記者は「罪人」の友人の証言などを探すべきだろう。「虫一匹殺せない、優しいひとでした」の一言をゲットできたら、〈技あり〉だろう。

かつては「罪を憎んで、ひとを憎まず」という言葉もあった。
どうやらこの言葉を、現代人は忘れてしまったようだ。

テレビを観ながら、僕はかわいそうな被害者に思いをはせるのと同じくらい、加害者にあわれみを感じる。やれやれ。あらあら。どんな事情があったのだろう、と思う。
ひとりぼっちだったのかな。悔しかったのかな。


「革命」は「罪」か


権威主義者は「罪人」を「反社会的だ」と糾弾する。
しかし冷静に考えてもらいたい。
ある社会に反逆する人々を生み出した責任の一端は、その社会にあるのではないか。

権威主義者は「李下に冠を正さず」と言う。
でも僕は、飢え死にするよりも、桃の一個くらいなら、盗んだっていいじゃないかと思う。(もちろん百個はダメよ。)
君を飢え死にしそうな状況に追い込んだ社会が悪いのだから。

若かったとき、僕は「現在」の社会を否定して、よりよい「未来」の社会を創造するために、革命を学んだ。歴史を学んだ。
鹿鳴館』の清原永之輔に、『オルフェウスの窓』のアレクセイ・ミハイロフに、憧れた。

けれども社会科の教員になって驚いた。
社会科教員養成科目に登録する学生は、従順な子羊だけだった。現在の社会秩序に服従しながら教室の絶対者になるのを望む、お行儀の良い「奴隷がしら」志願者だけだった。
そこには現代社会の変革を願う、澄んだ情熱もたくましさも、感じられなかった。

あんなひよわな連中が社会科の教師になっても、現在の自分の価値観を相対化して現代社会を俯瞰しながら、社会批判をつうじて新たな社会を創造する能力を、ティーン・エージャーに習得させることなどできまい。


「密告者」が次の「罪人」となる


ニュースを見ていると、「善良な市民」の情報提供=密告によって、事件の真相が明らかになる場面にしばしば遭遇する。

けれども密告という行為は、果たして善なのだろうか。
ただたんに卑劣なだけではなかろうか。
スマホで盗聴盗撮する連中に、倫理観て、あるのかなあ。
社会を支配する権威主義者から感謝されるって、そんなに愉快なことなのかなあ。

レ・ミゼラブル』のミリエル司教はジャン・ヴァルジャンを密告しなかった。

おそらく密告者が増えることで、社会には不信と猜疑が蔓延していくことだろう。

密告者は自己反省をしない。
自分は善だ、敵は悪だ、だから悪を密告しよう、悪を排除しようと考える。
一歩立ち止まって、ほんとうに自分が正しいかと反省しない。
短絡的なのだ。だからこそ危険である。

まさに彼らこそが次の「罪人」となるのだろう。
彼らは社会に不信をばらまきながら、自分だけは自信満々だ。
そう、彼らは信じている、「自分は正義の鉄槌を下しただけだ」と。
彼らが密告した犯人のセリフと同じだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?