政治と宗教 -石破首相の事例
石破首相はキリスト者、それもプロテスタントだ。
僕自身、プロテスタントなので、その長所も短所もよく知っている。
プロテスタントは在野の抵抗者としては、抜群の能力を発揮する。
しかし体制の維持を目的する組織の長としては、ダメである。
信仰心のあるひとは独善的
何かを「過度に」信じているひとは、その信仰の対象が何であれ(財力であれ、学歴であれ、愛であれ、イワシの頭であれ)多かれ少なかれ独善的である。
なかでもプロテスタントは極めて独善的である。
そもそもその起源はローマ教会への抵抗分子、ルターだ。
ルターは、ローマ教会の支配と保護のもとでつくられていた既存の世界に、いちゃもんをつけた。大多数の信者にしてみたら「うざいやつ」だった。
一方、ヨーロッパからアメリカに渡ったプロテスタントは、農村で清廉潔白の文化を発展させ、都会の人間を腐敗堕落していると非難して、自らの文化を強要した。その成果が禁酒法の成立である。
ところで日本では、キリスト者は人口の1%しかいない。
要するに日本のキリスト者にとっては、「犬が西向きゃ尾は東。まわりぜんぶが敵ばかり」が常態である。
従ってますます視野は狭くなり、頑固になる。
問題は、程度の問題である。
何を信じても、「過度」でなければ、「ほどほど」ならばよいのだ。
プロテスタントは、自分の理想のためなら手段を選ばない
プロテスタントに手段=権力を与えるべきではない。
自分とは理想が違う人たちと、適当にうまくやっていく術を知らないからだ。
だから大きな組織をまとめるには無能である。
そしてプロテスタントの独善性は争いをもたらす。
実際イラク戦争をおこなったブッシュ大統領は熱心なプロテスタントだった。
彼の家の施設付神父はメソディストだ。あの禁酒法を作った圧力団体である。
もちろんプロテスタントの能力が求められる時もある。
それは腐敗堕落した組織を浄化する時である。
おそらく多く人々が石破さんに期待したのは、まさにその役割であった。
しかしプロテスタントにとって、最も大事なのは自分自身の理想の実現である。
それに邁進することが神の使命を果たすことだからだ。
それゆえ自分の理想と直接関係のないことについては、どうでもよくなる。
だから、どんな裏切りでも、どんな妥協でも、平気でおこなう。
実際ルターは、ローマ教会は間違えていると信じて抵抗運動を開始したが、そんな自分を慕って来た農民たちのことは切り捨てて領主の味方になった。
「打倒ローマ教会」がルターの信条であって、「農民の日常」には無関心だったのだ。
石破さんも同様であろう。
石破さんは理想の日本国をつくるためならば、あとのことはどうでもよいのだ。
裏金議員の公認/非公認など、たいして重要なことではない。
別の言葉で言えば、目的=理想のためなら、手段を選ばないということである。
彼の理想の前なら、自民党だって手段に過ぎない。
理想のために、高市さんのような保守派を排除して、自民党を分裂させて、立憲民主党と新党をたちあげることが必要とあれば、それだって平気でやるだろう。
神への愛はあっても、知恵はないひとびと
実際、信仰にあつすぎるひとは、わざわいである。
僕がかつて勤務した女子短大の執行部もそうだった。
短大を維持するという目的のために、手段を選ばなかった。
彼らが分かっていないのは、「手段が理想を規定する」という点である。
例えば日本の核武装という手段では、世界平和という理想は不可能である。
ひとを騙し裏切り傷つけ排除するという手段では、真理を謙虚に探求する学び舎を維持することは不可能である。
手段によって、目的は縛られるのだ。
ユダヤ教を過度に信じるネタニヤフが首相であるイスラエルは、国連レバノン暫定軍に砲撃した。
そのような手段を用いたイスラエルは、もはや国連主導の世界平和によって恩恵を受けられると期待できない。
畢竟、狂信と敬虔な信仰は紙一重。