概要
スタートアップとは、革新的な製品・サービスの提供により、急速な成長を遂げようとする意志を持った新興企業のことである。そのビジネスにはしばしば高度な技術が要求され、また最先端の学術知識の社会実装・貢献の場となることから、大学が所属学生や卒業生に対してスタートアップ起業支援を行っていることも少なくない。例えば東京大学では工学部共通科目としてアントレプレナーシップが開講され、今や学生であっても起業に関する基礎知識を学習することは普通のこととなっている。
FoundXはそんな数ある東大の起業支援組織の1つで、ウェブサイトに大量の学習資料を公開しており、それらを熟読すればスタートアップについて十分な知識が得られるようになっている。ところが、日本で起業を志す者が参考にするには使い難い点が2つある。1点目には資料が膨大であり読み切るのが難しく、加えて読み終わった後に必要な知識をもう一度探すのが困難であること。2点目には海外記事(Sam AltmanやPaul Grahamが代表を務めるY Combinator)の翻訳が多く、そこではアメリカの様々な企業が教訓毎に最も適したものが具体例として挙げられていること。アメリカで育ったアメリカの企業の様子より日本で育った日本の企業の様子の方が日本の起業家にとって役立つであろうし、多数の企業について浅く知るよりも、全項目に対して1つの企業がそれぞれどの程度当て嵌まっているか知りたいということもあるであろう。
そこで、本稿では日本の成功したスタートアップから1つを選び、その企業についてFoundXの主張する成功するスタートアップの特徴をどの程度満たしているか、1つの記事で網羅的に記述する。対象は世界的コンテンツであるポケモンの開発元で、田尻智が創業したゲームフリークとする。ゲームフリークに関する情報は畠山けんじ、久保雅一、『ポケモンストーリー』、日経BP社、2000及び宮昌太朗、田尻智、『田尻智 ポケモンを創った男』、メディアファクトリー、2009、そして『小学館版 学習まんがスペシャル ポケモンをつくった男 田尻智』、2018の計3冊から得るものとする。この比較の結果、ゲームフリークは成功するスタートアップの特徴をほぼ満たしているということが判明した。
アイデア
アイデアは明快かつすぐ誰かを興奮させる
アイデアは明快でなければならないとSam Altmanは主張する。
これに対し、ゲームフリークは明確な回答を持っている。交換がアイデアであり、そのアイデアは川口孝志と石原恒和を魅了した。
「スタートアップのアイデア」を考えない
良いスタートアップのアイデアを得るには、最初から「スタートアップのアイデア」を考え出そうとするのは逆効果である。そもそも、最初は企業にするつもりすらなく、単にやりたかったからやってみた、そういうところから始まることが多い。
ゲームフリークはこれに完全に当て嵌まっていて、当初はゲームを作ろうという予定すらなく、田尻が単に同名の同人誌を発行しているだけであった。そこから共鳴した仲間が集まり、ゲーム制作企業としてのゲームフリークへと繋がっていく。
自分自身がターゲットユーザー
各人が保有する資産や可処分時間は有限である為、あったら嬉しいが無くても良い、その程度の製品・サービスは利用されない。その為、強く欲している人が明らかに存在するものを作るべきであり、従ってターゲットユーザーとして望ましいのは自分、もしくは自分がよく理解している人々である。
ポケモンの開発より遥かに前の時期であるが、重度のゲーマーである田尻は既存のゲームに不満を持っていて、自分でどうにかして解決したいと思っていた。自分自身がターゲットユーザーである。
規模が拡大し、模倣が難しいビジネス
独占という表現だと分かり難いが、規模が拡大し、模倣も難しいビジネスを確立するのは当然のことである。
これに関してはビジネスモデルという観点ではゲームフリークは回答を持っていない。ゲームを売って儲けるというのは以前から経済的成功を収める手段として知られており、模倣に関しても防ぐという意識自体が薄い。ゲーム以外への拡大は小学館の貢献が大きく、ゲームフリークが当初からその野望を持っていた訳ではない。
ゲームフリークが模倣対策に熱心ではないのは、ゲームという市場の性質に由来すると思われる。多くの製品・サービスは1人が1つしか利用しないものの、ゲームソフトは1人が複数購入して遊ぶものである為、模倣の出現が自社製品の売上減少に直結しないからである。
但し、ゲーム以外でもこれに近い話はあって、特にスタートアップの初期においては、競合について考えることの意義は薄いとされている。
市場の規模と成長性
市場の規模が大きく成長性があればその波に乗れるので、それはそれで出資者への説明はし易くなるものの、小さな市場の大部分を占有し、その後製品と共に市場を大きくしていく方がより望ましい。
意図したことではないが、ゲームフリークはこれに当て嵌まっている。ポケモンの開発が遅れてその間にゲームボーイは時代遅れになったものの、ポケモンの大流行によりゲームボーイの売り上げが復活し、後継機であるゲームボーイカラー、アドバンス等の開発が決定した。
但し、ゲームボーイソフトという市場にまだ可能性を感じていた人もいる。それがコロコロコミック及びその副編集長の久保である。ゲームフリークが把握していなかった市場の規模や成長性に関する理解をそれらが補った形になる。
素晴らしいチーム
創業者の性格は良い
起業家というとスティーブ・ジョブズのようなエキセントリックな、ややもすると人格破綻者寸前というのを典型例として想像しがちだが、そのような起業家は少ない。というのも、話し辛い創業者は他のメンバーと心を通わせることが出来ないからである。
田尻は創業以前から多くの人から慕われており、この条件を満たしている。
良い共同創業者は本当に欲しい
形式的にはゲームフリークには共同創業者はいないが、実質的には杉森が該当する。田尻と長く付き合い、お互いに支え合っている。
共同創業者や従業員と緊密な関係を保つ
田尻は同人誌「ゲームフリーク」発行時代、将来実質的な共同創業者となる杉森のアパートに入り浸っており、両者は互いによく知る関係であった。
杉森以外にも様々なメンバーと同じ空間で過ごしているが、これもスタートアップにおいて望ましいことである。
人を雇わない
人を雇うことには慎重にならなければならない。人を雇えば支出を増大させるだけでなく、意思決定が遅くなる。
そして人を雇わないようにするには、過剰な資金獲得をしないことも重要である。資金提供者は資金を使うことを期待して資金提供するのだから、過剰な資金を持たされることは急速な会社の拡大を強制されることであり、それに売り上げが伴わなければ倒産する。
雇うならば知り合いの中から探す
スタートアップでは初期段階で人を雇うのは最悪だが、雇わなければならない時もある。そのような場合、最良の人を時間をかけて判断し、絶対に必要な者のみを採用する。能力以上に為人やプロジェクトに対する姿勢が重要である為、赤の他人よりよく知っている知り合いの中から探すのが良い。
この条件をゲームフリークは大まかには満たしていた。同人誌「ゲームフリーク」に惹かれてやってきたゲーム好きが必要に応じてゲーム好きの友人を紹介するので、良いゲームを作りたいという理念を共有し易い。そのようにして雇われた者の中で著名なのが増田で、作曲出来る人が必要だという確かな必要性に応じ、従業員からの紹介でクインティ(ゲームフリークが最初に開発したゲームソフト)の制作プロジェクトに参加した。
この条件は「大まかに」しか満たしていないと書いたのは、”無能、社内政治、悲観は迅速に解雇する”の項で後述するように、不用意な採用により人間関係が崩壊し、大量退職を招いたこともあったが故である。
スキルより情熱と価値観を重視する
スタートアップは当然ながら大企業より人材に乏しいし、職務による完全な分業は不可能である。事業の見通しも不透明なので、当初想像もしていなかったスキルが突然必要になることさえある。それを少ない人数で回さなければならない。故に、今現在の能力よりも会社の価値観に合い、情熱がある人を選ぶ。そういう人ならば、今まで学んだことのないことでも必要になってから習得してくれる(そうでなければ雇わない)。
ゲームフリークはこれに完全に該当している。森本はプログラミング未経験ながら真っ先に志願してプログラマーになり、増田に至っては、開発に使っていたワークステーションが故障した際、それからUNIXの勉強を始めて修理までしている。
リスク耐性と意志の強さを重視する
ゲームフリークが意志の強い従業員に恵まれたことは、以下の増田のエピソードに典型的に表れている。
無能、社内政治、悲観は迅速に解雇する
ゲームフリークでも社内政治が発生したが故に、解雇を行ったことはある。しかし、社内政治の規模が大きくなってからのことであった為、多くの人が一度に辞めることとなってしまった。早いうちに対処するのが正解だったのであろう。
尚、解雇を行う際には、解雇される側も納得出来るよう、事前に準備をしておく必要がある。
社内文化は創業者の言葉ではなく行動が作る
ゲームフリークでこれに該当する具体例としては、田尻がスーツを着始めたことがきっかけで会社の規律が確立されたというものがある。
素晴らしい製品
実装による問題の反復的定義とアイデアの詳細化
ユーザーが何を求めているか、即ち、何が解くべき問題なのか見定めることと、曖昧さを残しているアイデアを実際に機能するところまで具体化する、この2つを達成する為、製品の開発を実行に移すということが必要である。
ゲームフリークもポケモンのコンセプトである交換を、ゲームとして具体的にどう実現すればユーザーにとって価値あるものになるか、大きく悩み続けた。そして、IDナンバー(他の人から貰ったポケモンかどうかを区別し、そうであれば早く育つ)、通信進化(一部のポケモンは交換によって進化し、強くなる)、カートリッジの色(色により出現するポケモンの種類が異なるので、自分では手に入れられないポケモンと友達が手に入れられないポケモンとの交換が成立する)という形で実現した。しかし何よりも当時のユーザーを熱狂させたのは間違いなくミュウであろう。
初期ユーザーと過剰に接して製品改良のフィードバックループ
ユーザーに極度に注意を払い、狂気的に卓越した(insanely great)体験(※凄くするのは製品そのものではない!)を与えなければならない。これは製品改良のフィードバックループに必須である。
形式的には、製品を早期に発売して初期のユーザーと直接関わりフィードバックを得て改善するという過程は踏んでいない。このような過程はインターネットを介してゲーム内容のアップデートが可能になった現代であれば可能かもしれないが、当時では難しかったであろう。1人プレイ専用ソフトなら兎も角、通信ケーブルを用いたプレイヤー間の交換をコンセプトとしているポケモンでは尚更である(古いソフトと改善された新しいソフトの間で交換が成立しなければ困ってしまうので)。しかし、完成直前のゲームに対するゲームフリーク社内や任天堂から寄せられた感想や意見に対しては全力で応えており、これがそれに該当するであろう。
偏執的に拘る(1)~ポケモンに名前を付けられるようにする
これは完全に当て嵌まっていて、ゲームフリークは自分のポケモンにニックネームを付けられるようにする為に、カセットに使うSRAMの容量を増やすよう石原と共に任天堂に要求しており、それが発売延期の一因になってさえいる。
偏執的に拘る(2)~ポケモンの世界観への個人のリアリティの反映
素晴らしい実行力
起業しなければならないのでなければ起業しない
良い会社に就職すれば高い給料が得られるし、その中で従業員として製品・サービス開発をするのでも大きく世界を変えられることは多い。
大企業の中に入る方が環境や使えるリソースも多く、通常そちらがより望ましい。では何故起業するのか、それはそうせざるを得ないからである。
これにゲームフリークは当て嵌まっていて、コンテストに応募したり、単にアイデアを売り込んだだけでは、既存のゲームメイカーがそれを実際に作ることはないということに田尻が気付いたからである。田尻は自分のアイデアをゲームにするには自分で作るしかないと悟ったのである。そして最初の自主制作ゲーム「クインティ」を完成させた後、これからもゲームを作りたいと思い、仲間を説得して会社化を行った。
創業者自ら製品開発をする
真にやる気に満ち溢れ、高い品質で求める製品を作り上げられるのは、しばしば創業者本人だけである。優秀な人を製品開発要員として雇うには高い金がかかる上、情熱にも欠けている。何より、製品を自作することはユーザーからのフィードバックを得る上でプラスになる。
田尻はゲームフリーク創業以前から技術を学び自分で作りたいものを作っており、この条件を満たしている。
大学院生のように貧乏な生活、拠点
スタートアップはいつから稼げるようになるか分からない。支出が少なければ少ないほど倒産までの時間を延ばすことが出来、その間にやれることも増えてくる。見栄えを気にせず、大学院生のように貧乏に過ごすべきである。
ゲームフリークはこの条件を満たしている。田尻のライターとしての原稿料という乏しい資金でマンションの一室を借りてゲーム開発が始まっているのだ。但し、この時点では多くのメンバーは学生で、会社は創業前、従って、給料の支払い等も当初は必要としていなかったということには注意が必要である。
しかし、この状態はラーメン代稼ぎという近年のスタイルに近いと表現した方がより適切かもしれない。
複数回の短期プロジェクトで経験を積む
ゲームフリークはこれに完全に該当している。ポケモンの開発が暗礁に乗り上げた時期、短期で完成する受託開発を繰り返して会社の運転資金を稼ぎ、それのみならず開発経験も積み、更には開発者としての信用を得ている。
資金調達では大成功の可能性を伝える
資金調達では、VCやエンジェル投資家に対し、会社が黒字になる確率の高さではなく、大成功する可能性がゼロではないということを伝える必要がある。というのも、スタートアップ投資とは、確実に少額儲かる投資を多数の会社に対して行うものではなく、多数の会社に投資し、その中の1つが爆発的に成長して大きな利益を得るというスキームで動いているからである。
一見投資家はハイリスクなギャンブルをしているように見えるが、そうではない。このことは同じ構造のビジネスが身近に存在していることから理解出来る。週刊少年ジャンプである。その編集部において、新連載が不評ですぐ連載終了するリスクを重く、大人気になってアニメやゲーム化までする大ヒットになる可能性を軽く見て、新連載を始めないということがあるだろうか(、いや、ない)。この商売が安定して存続出来るのは、連載を始めた段階では単に雑誌に載せるだけであり、マルチメディア展開のような大金を必要とする行動はしないからである。連載してみて不人気なら、すぐ打ち切れば損失は極めて小さく、逆に人気が出れば、それに応じて少しずつ商品展開を広げれば良く、人気の規模に応じた利益を得られる。スタートアップ投資も同じで、先ずは少額のみ渡し、上手くいかなければ資金提供は打ち切り、逆に順調であれば、事業の成長を見て段々と規模を大きくする。そうすると、大爆発の可能性を確保しつつリスクも小さく出来るのである。
お金のある投資家がお金のないスタートアップに対して上の立場ということはなく、投資家もまた起業家の才能を見逃すことを恐れているということは把握しておくべきである。
ゲームフリークはVCやエンジェル投資家から資金提供を受けた訳ではないが、天才の発想がゲーム界を牽引するという任天堂の世界観、及びポケモンの開発が遅れたゲームフリークへの対応は、これに近しいものがある。
成功のみならず失敗までにも予想以上に時間が掛かる
成功まで時間が掛かるという事実は文字通りだが、敢えてわざわざ言う必要がある。そもそも起業したということは、思い付いたアイデアが本人を起業に駆り立てる程に素晴らしい(と感じさせる)ということであり、そんな素晴らしいアイデアはすぐに大成功すると思ってしまう。始めてみれば分かる、そんなことにはならない。
しかも失敗するにしても、すぐに失敗だと判明させてはくれない。成功するのか失敗するのか分からないまま、何年も上手くいかない状況に置かれ続ける。
ゲームフリークも同じく、当初ポケモンは1年で作る予定であったが、実際には6年も掛かっており、その間にプロジェクト瓦解の危機を何度も迎えていた。
多くの人に対し責任を持つ
田尻も同様でポケモンの完成前から苦しかった。そしてポケモンが発売されて大流行を引き起こしてからは、金銭的な苦しみからは解放されるも、社会的な責任はより重くなった。