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学校教育で教わらなかった歴史の裏側@登戸研究所資料館

前から行ってみたかった”登戸研究所資料館”に行ってきました。



◯登戸研究所とは?



登戸研究所は、戦争時代に旧陸軍が秘密戦用に兵器・資材の研究・開発をするために設置した研究所でした。秘密戦とは、所謂、戦闘行為とは一線を画した水面下で行われるスパイ活動や裏工作における戦いを意味しています。

上記研究所で開発された物を説明している資料館であり、”ちきりんさん”のvoicyを知るまでは全くもって思って、この施設のことは知りませんでした。


以下”ななうみさん”のnoteでも、この資料館を訪問され、説明してくれています。


この資料館、明治大学理工学部・農学部がある生田キャンパスの中にあります。小田急線生田駅から徒歩で15分ぐらいのところですね。(マジで坂だらけのエリアw)

ここに登戸研究所が設置され、最盛期の1944年時点の構成員数は900人を抱える程の大所帯となっていたそうです。(終戦前の1945年に大半の機能は長野県に移転されましたが)

戦後、明治大学がこの施設の跡地を買い取り、大学の中に研究所の建物が残っていたわけです。

戦争において見えていなかった暗部を直視し事実を理解し、また世の中のための科学研究も、戦争という目的のためには、理性や人間性を失いかねない危険性も孕んでいるということを自戒するために、この資料館を設立されたとのこと。


◯ 研究開発の中身


この施設、規模的には小さい建物なんですが、中身がめっちゃ詰まっていて、戦争の経緯、また各出来事の背景部分まで詳細に説明してくれているので、大変学びになることばかりです。

また、個人的に元々日本史が好きだったこともあり、高校時代、今でもそうかもしれませんが、どうも日本の学校教育は、近代史の部分を適当にちゃっちゃっと終わらせる感があり、何だかすっぽかされてしまった影響を受けてしまって、あまり覚えていないというのが本音です。

やっぱり社会人になってからですかね。ジブンとしては、「なぜ日本はあんな戦争をしてしまったのか」という部分に興味があったので、半藤一利さんの”昭和史”や”失敗の本質”、等の著書やテレビのドキュメンタリー番組や映画等で、色々と歴史に触れてはきました。

なので、恐らく一般的な人よりは、どういう背景で戦争に至り、どんなことを日本が周辺国に行い、戦争を行ってきたか、その内容について説明できる位な知識はあります。

ただそれはあくまで分かっている範囲(情報に触れられる)でのマクロ的な話に過ぎず、戦争で勝った国が事実を捻じ曲げる事ができるように、本当に理解していくためには、双方向且つ多面的に色んな角度からモノゴトを見ていく必要があると思っています。

登戸資料館では、ミクロ的な視点で、細部にわたって何があったのか、詳細を説明してくれています。

【偽札製造】
日中戦争は1937年に始まりましたが、泥沼となり戦局が上手くいかず、これを打開するための手段として、当時の中国の通貨である”法幣”を偽札工作を始めました。狙いは、①偽札流通によるインフレでの経済混乱と、②現地での物資購入に使用。

まさか陸軍が偽札まで作っていたとは知らず。
偽札の製造工程は、①製造・すかし ⇨ ②製版 ⇨ ③印刷 ⇨ ④古札仕上げ ⇨ ⑤梱包。①〜③の印刷までは、香港にあった法幣の印刷工場の機械(イギリス製)を1941年に接収できたため、偽札はほぼ本物と変わらない高いレベルで製造できていたようです。よって、④古札仕上げの部分(新札だと怪しまれるので、古く見せかけるようにする)で、改良を重ねたとのこと。

また、登戸で製造した偽札を、スパイ工作員(中野学校というスパイ養成所の人員)が、南武線→東海道線を使って列車で神戸まで運び、そこから船で上海まで運んでいたそうで、実際に上海まで運ばれた方のインタビューも動画で流されていました。

偽札運搬ルート


【風船爆弾】

和紙5枚とコンニャクイモの粉を混ぜ合わせて作った直径10mにもなる風船。なぜゴムを使わなかったかというと、単純にゴムが日本で取れず、東南アジアからも輸入できていなかったからなんですねー。

なので、陸軍としては、知恵絞ってできる手段の中から、考えて作り上げたというわけです。

それにしても、よくこんなものを作り、偏西風に乗せて、アメリカまで10000発も飛ばしたもんだと思います。(実際にアメリカまで到達した数は10分の1の1000発程)

この風船に、本当は家畜等を殺傷させるウィルスを積むはずで、そのウィルスの研究もやっていたそうですが、流石にアメリカ側からの報復を恐れて、焼夷弾に代えて積んだとのこと。(不幸な事に、アメリカまで辿り着いたこの風船爆弾に触れてしまい、その爆発によって、現地で6名ほど死者が出てしまってます)

風船爆弾の製造


【電波兵器】
電波兵器の実験を行うために、高台にある登戸のエリアが選ばれたとのこと。ここから、富士山目掛けて電波を発し、その反射を調べる等、本当色々な事を考えてたんですね。

電波兵器


◯ 訪問を振り返ってみて


登戸研究所の展示物から、当時、日本としては本当に、戦争に勝つにはどうしたら良いのかと言うために、様々な事を試行錯誤していのかがよく分かります。

戦争に勝つという間違った目的であったとしても、当時関わってきた多くの人々は、ただまっしぐらにジブンがやるべきことをやってきただけなんだと思います。

それについて、私がどうこう言える立場ではありません。ただこの現代に生きる我々に出来ることとして、やってきた事実を事実として受け止め、それによってどのような影響を与えたのか、それらを理解する必要があると思っています。

特に東南アジアの諸国に対しては、日本が戦中に起こしてきたことをしっかりと認識した方が良いと思ってます。私は仕事を通して、多くのインドネシア、シンガポール、マレーシアの人達と話してきましたが、日本人が思っている以上に、戦争の影響を彼らに与えています。普通に「トウジョウヒデキ、ヤマシタトモユキ、ジュウグンイアンフ」等の言葉が、彼らからでてきますし。「もう昔の事なので良く分かりません」と言ってしまっても、特段大きな影響にはなりませんが、それでも、如何にビジネスとはいえ、彼らと話す上で、最低限、日本が何をしたのかということを理解した上で、望むべきだと思います。

日常生活をする上で、別に登戸研究所の事など気に留めなくても生きていけますし、実際に私も知らずに40年間程生きてきました。これからもそれで問題は無いと思います。しかし、それでも限りある人生、戦争関連であろうが何であれ、ジブンの探究心に従って主体的に動き、「なぜだろう〜?」と思う事に対して、ジブンの目で見て確かめ、謎解きを行う人生の方が楽しいと思います。世の中、まだまだ本当知らないことばかりですし。

訪問を振り返ってみて、80年前に既にこのような秘密戦が行われていた事に、ただただ驚愕するばかりです。80年前であのレベルということは、近代の戦争(ウクライナ•ロシア戦争)においては、恐らく我々が想像できない所まで秘密戦の開発や実験が進んでいるのではないかと思うと、ものすごく怖い話だなと感じています。

また、日中戦争の戦局が長引けば長引く程、登戸研究所の秘密戦に期待していたとの事ですが、一体どのくらいの期待値を想定していたのか、また暗号関連の秘密戦に日本は弱かったとされていますが、それはなぜだったのか、そして、戦後、朝鮮戦争やベトナム戦争において登戸研究所で開発された技術が、どの程度アメリカ側にとってこれらの戦争に寄与したのか、等、今回の訪問をきっかけに、色々と深掘りしたい事が増えたので、時間をかけてみていきたいなーと思っています。

ではでは、今日も一日頑張っていきましょう!

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